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キコクシジョをめぐる「私情」


以下は、ベネッセ教育研究所から1997年10月1日に発行された『季刊 子ども学』第17号に書いた原稿である。発行元の許可を得て、ここに全文を再掲する。

帰国子女のニュースレター

 何と言ったらいいのだろう、『私情つうしん』という名の、ひと昔(ふた昔?)前だったらミニコミと呼ばれるようなものを主宰している。一応、「数人の元・帰国子女のわくわくする思いから生まれたニュースレター」と称している。1995年の6月に 第1号を出し、以降基本的に隔月ペースで続けてきた。手弁当で仕事の合間にやっているから、忙しいときは丸一号分、発行が遅れたこともある。
 A4版は当初から変わらないが、最初が6頁だったのに比べると最近は大体12頁になっている。発行の主体となっているのはぼくを含めて何人かのキコクシジョたち。そのまわりを「サポーター」と称しているファンクラブのような人々が取り巻いている。ともかくぼくたちの勝手な出版物をサポートしてくれる人がいるとわかればこちらもほっとするし、励みにもなるということで、「サポーターになります」という宣言をしてくださいと呼びかけ、それに応じてくれた人々だ。それとは別に、こちらで読んでほしいと思う相手には勝手に送りつけもする。現在、郵送先名簿には約350名がリストアップされていて、サポーターの数は約130人。そのうち、子どもの頃に海外で生活した経験がある日本人、という意味で「帰国子女」であるのは、4割ほどだろうか。サポーターの人数が増えるにつれて、比率が下がってきている。
 1996年の1月からは、インターネットのホームページとしてすべての内容を公開した。月間平均700〜800件のアクセスを数えている。

ネーミングの由来

 なんでこんなことを始めたかの動機は後で書くことにして、まずは『私情つうしん』というネーミングについて。
 日本語に、「ワタクシゴトで恐縮ですが」というセリフがある。だがぼくには、まずなんでワタクシゴトだと恐縮しなければならないのか、わからない。いいじゃないか、人間にとって自分がどのような暮らしをしていて、何を感じ、何を考えているかということほど、大事なことはないじゃないかと思うのである。実際、この枕詞の後に続く言葉は往々にしてもっとも肝心な部分であるような気がする。
 発想はそんなところにあった。大事にしたいのは、自分の気持ち。それを表現する場にしたい。だから、『私情つうしん』である。仲間でおでん屋に集まり、お銚子を何本も倒した末、なかばぼやけていた頭脳の中に浮かんできたのは、そういう原点であった。

ぼくのワタクシゴト

 今回の原稿は、その『私情つうしん』に集うキコクシジョたちの姿を描いてくれ、という注文である。それならばしかし、ぼく自身の私情から書かなくてはならないだろう。
 生まれは1957年。平凡なサラリーマン家庭だと言ってもいいだろう。神奈川県川崎市立の小学校に通う四年生であったとき、父の転勤に伴って家族でメキシコに引っ越すことになった。100年近い歴史を持っていたその小学校で、海外への転校生は初めてだと言われた記憶がある。
 メキシコに着くと、現地の学校はちょうど夏休み。着いた翌日には同じアパートに住む同年代の子ども達が家に押し寄せてきて、かくれんぼなどして遊んだ。もちろん言葉は通じない。かろうじてアルファベットで自分の名前が書ける程度。メキシコで使われている言葉がスペイン語であるという知識が当時のぼくにはあったのだろうか。

アメリカンスクールへ

 それがアメリカンスクールの編入試験であったと気がついたのは、数年後になってからであった。親と一緒にアメリカンスクールに行き、いつの間にか子どもだけ隔離されて別室につれて行かれた。ほかにも同じような年頃の子どもがいっぱいいた。目の前に紙が出され、鉛筆を配られる。みんなのすることを真似て紙を開くと問題が並んでいるので、わかるところだけ書き込んだ。英語の問題にどのように対処したかは覚えていないが、算数は解ける問題があった。どういうわけかぼくは無事に年齢通り4年生に編入を許可され、妹は学年を1つ下げて1年生から始めることになった。
 メキシコのアメリカンスクールでは、午前は英語で午後はスペイン語、あるいはその逆で授業を受けることになっていた。だがぼくにとって2つの外国語を同時に学び始めるのは無理だろうと判断されて、午前も午後も英語のクラスにいられるように配慮してくれた。クラスの中でもリーダー株の男の子がぼくの世話係として指名され、休み時間はいつも彼の後について金魚のフンになっていた。やがて、下校しても彼とは互いの家に行き来する大親友になった。
 それでもなかなか英語は上達しない。2年後だか3年後だかの通信簿に、今読めばわかるのだが「この子はまったく宿題をやってこない」と書かれている。宿題も何も、先生の指示が理解できていなかったのである。毎日5冊の辞書をかばんにいれていたのにもかかわらず、である。5冊の内訳は英和、和英、和西、西和、そしてこれら大人用の辞書を使うための国語辞典である。以来、ぼくの右肩には重い荷物があるほうが安心するというクセがついた。
 それでも7年生になるぐらいには、クラスの中でも口が達者でargusomeというアダナを持つ少年が一番の親友(最初の頃の「世話係」は、そのころには別の国に引っ越していた)になるほど、英語がわかるようになっていた。数学は学年中のトップに近かった。社会科で日本のことを学ぶときには、日本人の代表だと思ってはりきった。学年新聞をつくる授業に参加はしたが、文章を書く自信はなく、もっぱら写真係だった。栗毛色の髪をした女の子に淡い想いを抱きもした。

メキシコ日本人学校

 それより1年ぐらい前のことだったか、メキシコシティにも日本人学校ができたという噂を耳にした。だが中学部がないとか、できたけれど複式学級だとかいうことで、転校はしなかった。ただ、数カ月ごとに何かというと家族で将来をどうするか、話し合うようになっていた。高校はどこの国で学ぶか、大学はアメリカを目指すのかどうか。あるいは日本に帰るのか。だとすればそれはいつか。
 そんなとき、あるきっかけがあって、日本人学校を見学に行った。そこでぼくも妹も衝撃的な体験をする。生まれて初めて、自分と同じ年齢の日本人中学生(妹の場合は小学6年生)を見たのである。その晩、兄妹は家族会議を自ら召集し、両親に転校の許可を求めた。ともかくあの子ども達と友達になりたい、という思いでいっぱいだった。
 さっそく、ぼくにとっては中学2年生の2学期から、日本人学校での生活が始まった。すぐに最初の実力テストがあった。そして、前代未聞の成績を取った。国語は、それまでも駐在員社会の大人の間で回し読みされていた日本語の本(推理小説や歴史小説が多かった)を手当たり次第に読んでいたから、人並みであった。驚いたのは数学である。クラス六人の平均点を大幅に引き下げ、さらにその半分をたっぷり下回っていた。アメリカンスクールでは、1学年上の分まで、優等生として終わっていたのに!
 女子生徒の椅子を引いてあげること、入り口ではとびらを開けて次に来る人を待つこと、そんなことが「キザ」だと言われ、その意味がわからなかった。
 だがこの日本人学校で過ごした4学期間が、ちょうどよい帰国への準備になった。受験勉強などという意識はなく、ただクラスメートに追いつきたかった。タイミングよく、父の帰任も予測できるようになっていた。

帰国して高校へ

 今と違い、帰国子女を特別扱いにして別枠で受験させてくれる学校は、ほとんどなかった。少なくとも、帰国して住むようになった横浜の社宅から通える範囲にはなかった。だが、運だめしあるいは試し斬りのつもりで受けた高校に合格。5年半ぶりの日本に胸が躍った。
 制度面で言えば、その前年に、文部省が海外の日本人学校に中学校としての資格を認めていたという幸運にも恵まれた。1年前の先輩たちまでは、どこか国内の中学校に一時的にせよ在籍して卒業資格をもらわなくては高校を受験することができなかったのである。
 高校に入り、自己紹介で自分の出身校を「メキシコ日本人学校」と言うと、教室中がどよめいた。それが言えるようになった1期生だということは、当時は知らなかった。隠せるものなら隠しておいた方がいいという知恵はどこかで耳にしていたが、逆に日本の中学に行っていなかったがために、ウソをつかないかぎり帰国子女であることを隠せなかったのである。その日のうちに、ぼくのことを「メキシコ」と呼ぶ同級生が出たが、嬉しくはなかった。
 今でも当時のクラスメートに会うと、「オマエはヘンなやつだった」と言われる。ぼくはかまわず、ぼくのやりたいようにやっていた。幸い、ほかにもいろんな意味でヘンなやつの多い学校だったから、やがて自分の居場所も見つけて、毎日遅くまで学校に居残るようになった。
 ぼくは自分がヘンだとはまったく思わなかった。逆に、日本の学校とはなんとヘンなところだろう、ということに気づいた。アメリカンスクールでも、日本人学校でも、学校という空間は授業も含めてすべてが遊びのように楽しいものだった。
 ところが日本の高校では「お勉強」というものは仕方がなくてやらされているものだと、みんなが思っていた。終業のチャイムが鳴ると早々に学校を出て、予備校というところに行っているらしい人がいることも知った。
 学校は、ぼくにとっては相変わらず楽しく生活する空間だったが、ほとんどの生徒にとってそれはそんなに強い愛着を捧げる場所ではないと知ったとき、ぼくはそんな状況がまちがっていると思った。まちがっているならば、変えなければならない。2年生の秋になり、たまたま同じクラスにいた生徒会長などと意気投合したぼくは、みんなの考え方をなんとか変えていきたいと、何人もの、けれども決して多数派にはなり得ない仲間と共にさらに遅くまで学校にいるようになった。

キコクシジョ同士でつながる

 大学に入っても、同じことを考えていた。しかし、大きな違いに気づかされた。高校では全校でも1200人弱、数人の声でもみんなに届くと感じられていたのに、大学では一つの学年だけでも3000人いた。絶望して、たぶん人生最大のと言えるカルチャーショックに見舞われ、ほとんど登校拒否状態になった。その中でやっぱり日本の教育はどこかおかしいという思いだけは募り、教育学部に進んだ。
 ある日、教授に呼ばれると、そこにはほぼ同年代の帰国子女がいた。彼女は何度目かの海外生活から帰国したばかり。この出会いから、メタ・カルチャーの会という、日本で初めての帰国子女自身によるネットワークが生まれた。掲げていたのは、帰国子女自身が相互に支え合うと同時に、帰国子女教育について研究していくことであった。ぼくたちは世間に向かって初めて当事者としての声をあげたことになり、学界からもマスコミからもそれなりの注目を浴びた。
 彼女は修士論文として、ぼくは卒業論文として、それぞれ帰国子女のライフヒストリーを書いた。数年後に、打ち上げ花火のようにして200人規模のシンポジウムを開き、ネットワークは休眠状態に入った。それぞれ社会人としてのスタートを切り、ぼくは仕事に追い回される日々が続いていた。

帰国子女教育への復帰

 ぼくの就職は、テレビ番組を制作しているプロダクションであった。会社を変わったり、ニューヨークに1年間駐在したり、有為転変を重ねて、いつしかぼくは妻と長男を持つようになっていた。 日本人学校時代を思い出してキザに言わせてもらえれば、生まれたばかりの長男の顔を見て、ぼくはやはり自分のいちばんやりたいことを仕事にしようと決意した。
 世の中に『海外子女教育』という月刊誌がある。海外子女教育振興財団という公益法人が発行している。ぼくは当時の編集長に拾われ、この雑誌のレギュラー執筆者としてフリーランスの道を歩み始めた。
 自分が企画して連載を始めた「帰国子女Who's Who」というインタビューで毎月1人ずつとの出会いをくり返し、帰国子女を受け入れる学校の訪問ルポを書いては志篤き先生たちや中学生・高校生の帰国子女たちと話し込んだ。ある年に数えてみたら、1年間に数百人の帰国子女と会っていた。
 今もこの仕事は続けている。もう、10年になる。だがやはり、それでも胸にわだかまるものは残る。むしろそうしてさまざまな出会いの中で帰国子女教育の現場を知り、自分以外の帰国子女の思いに接するにつれ、自分の言葉で自分の思いを語りたいという欲求は強まっていくばかりであった。『海外子女教育』という場はあっても、そこで書くものは客観的なルポに終始する。自分の主観的な意見を表明できる欄がないのである。それは公益法人の機関誌という性質上、またぼくが一介のライターに過ぎないという立場上、不可能な相談であった。

そして私情

 広がるだけ広がった仲間の輪の中には、それぞれの場所で同じようなもやもやを抱えている人もいた。ならば、自分たちのポケットマネーで、自分たちのメディアをつくってしまえばよい。
 と、紙面の大半を費やして話は冒頭に戻る。ぼくは、この間に海外子女教育振興財団の下請けを含めさまざまな仕事をする顕微鏡的に小さな会社のナンバー2になっていた。この会社にとって、ぼくが個人的にでも帰国子女とかかわることを始めるのは、損にはならない。『私情つうしん』の印刷代は、ぼくのわがままを認める形でこのルーツインターナショナルという会社が出してくれることになった。
 『私情つうしん』の郵送先名簿には、ぼくがメタ・カルチャーの会以来出会ってきた帰国子女をはじめ、学界、教育界などさまざまな分野で海外帰国子女教育にかかわる人々を並べた。
 第1号への反応は、ぼくたち自身にも予想できなかったほど、熱狂的なものがあった。1カ月の間に、30通ほどの「お返事」をいただいた。幹事が覚悟していた出費とほぼ同額のカンパが同封され、次の号は一挙に倍に頁を増やさなければならないほど、原稿が寄せられた。
 インターネットのホームページとして公開すると、見知らぬ人からも続々と電子メールが届くようになった。中には現在まさに、フランスやアメリカ、エジプトなどで生活している日本人の中学生や高校生からのものもあった。その親としての立場にある人からのものもあった。帰国して20数年を経て、社会人として立派に生活し、家庭も持っているかつての帰国子女が、自宅にコンピュータを購入してインターネットに接続したとたん、何年も忘れていた「帰国子女」という言葉を検索キーワードとして入力し、『私情つうしん』ホームページを発見して初めて書いた電子メールなるものを寄せてくれる、という例も1つならずあった。オーストラリアの学生で、本人は日本人ではないが日本の帰国子女教育を研究しているという人も仲間になってくれた。
 こちらからインターネットを検索すると、アメリカにも世界各国で育ちアメリカに帰国してさまざまなカルチャーギャップを体験した人々のグループがあることがわかり、『私情つうしん』を一部なりとも英訳してインターネットに掲載する意欲が生まれた。それが実現すると、さらに世界中から電子メールが来るようになった。

「帰国子女」って、何だ

 『私情つうしん』での話題は、まず「帰国子女」という言葉について大きな盛り上がりを見せた。この言葉が好きだと言う人はまずいない。差別的に感じてはっきりと拒否する人がいる。こんな言葉にこだわりたくないと言う人もいる。逆にこんな言葉を生み、それとともに差別を生んだこの社会を問い直してみようと言う人もいる。そんなことはもう卒業した、と言う人もいる。
 この議論は、「では、キコクシジョとは何を意味するのか」という問いにつながった。日本に生まれ育った「普通」の日本人とはどこかしら異なる存在としてのスティグマなのか。あるいは同じ異なるにしても逆に「日本の国際化をリード」したり「外国語がしゃべれ」たりするウラヤマシイ存在の代名詞なのか。
 ぼくの世代は、これまで書いてきたように、目の前にレールがなかった。それだけで主流から外れたという自覚を本人も親も持っていた。就職するときにも、もし一般の大企業を目指すのであれば海外生活体験が邪魔になった。日本人としての集団行動に適応できず、礼儀作法や日本語に欠陥があると見なされていたのである。
 ぼくよりも10年ぐらい若い世代は、海外の高校を卒業してきても日本の有名大学を受験できた。就職する際には、国際化の波に乗り、過剰に期待される立場を味わった。
 さらに若い、たとえば現在20歳代前半以下の世代になると、帰国子女の存在がかなり当たり前の時代になる。それとともに社会全体に「帰国子女」と言えば欧米の現地校で数年間を過ごし、英語がペラペラでバタ臭い生活感覚を持っているというステレオタイプが確立し、これとのギャップに苦しむ例も生まれるようになった。
 さらに、帰国した時の年齢による違いもある。小・中学校時代に帰国したのであれば、現在でもかなり日本への同化圧力が高い。これは高校レベルでも同じことが言えるが、帰国子女の比率が高い学校に行けば現地そのままの行動にも後ろ指さされることなく生きていけるが、そのかわり上記のステレオタイプが期待される。逆に帰国子女が珍しいと言われる環境に行けば相変わらず「日本人」としてとけ込むことが要求される。
 大学入学時点で帰国すれば、それなりの有名大学を目指すことが当たり前であると共に、最近は帰国子女同士の競争が激しくなっているという現実に直面する。
 帰国子女の受け入れ制度が整ってくると、日本に戻っても本流に乗り直すことを目標にすることができる。海外にあって、日本を向いてばかり暮らすという家族は、年々増えるだけのような気がする。矛盾するようだが一方では、現地に永住してもよいと考える親が出てきたり、現地で得た配偶者との間に生まれた国際結婚の子どもが帰国するようにもなっている。
 もちろん、どこの国あるいは地域に住み、どのような学校に通っていたかによっても、その経験は千差万別になる。
 帰国子女のデフィニションは、多様にならざるを得ない。

キコクシジョという思想

 『私情つうしん』での議論はやがて、自分たちのアイデンティティを問うようになっていった。自分は日本人なのか、「コクサイジン」なのか。バイリンガルであること、バイカルチュラルであることに意味を見いだすこともあれば、そんなのとは関係ない、自分はただの○○であると、自分の名前だけをよりどころにする発想もあった。
 「根付く場所はどこか」という議論からは、「そういう植物的な比喩はやめて、動物のように移動するアイデンティティを考えたい」という提案があった。
 「キコクシジョであること」とは、海外生活の経験や外国語ないし国際理解の能力を持っているということではなく、単一で同質的、かつ主流とされている文化=言語=民族性を拒否する複数性の「思想」なのではないかという示唆もされた。
 ここに至って、キコクシジョは世の中のあらゆる狭間(境界)にいるマイノリティとつながる回路を指し示すことができるようになった。在日外国人や留学生、国際結婚家庭の当事者はもちろん、主流からはみ出した存在としての女性、障害者、不登校児、あるいはなんらかの形で社会に対し違和感を持ち、ないしは不適応を自覚している人々……。彼らはみな、主流文化の境界上にあって、それぞれの「異文化」を持ち続ける人々である。
 「キコクシジョ」が、越境する人々の全体の中に位置づけられる言葉になり得たとするならば、ぼくたちのよりどころは日本文化にもどこか外国の文化にもなく、むしろ複数の文化の「いいとこ取り」(悪いとこ取り)をしたぼくたち一人一人独自の文化にしかなり得ない。地縁的な空間軸に沿ってではなく、それぞれユニークな過去の経験を踏まえ未来に続く歴史的な時間軸に沿って自らのアイデンティティを構築して行くしかないのである。
 期せずして、『私情つうしん』の中の「私」という文字が、大きな意味を持つようになった。キコクシジョは、日本文化と同一化することはできない。むろん、どこかの国の文化と同一化することもできない。キコクシジョは世間の言う「帰国子女」とも同一化することができない。それぞれにまったく異なる文化的・言語的背景を持った、他と異なる「私」でしかない。「日本人」にはなれないが、日本人でもある私。「外国人」にはなれないが、外国人でもある私。「帰国子女」とひとくくりにされることは拒否するものの、キコクシジョであることはまちがいない私。そのすべてをひっくるめた、ユニークな存在としての私。そこを基準にするとき、私は私として語り始めることができる。その「私」に、『私情つうしん』はまったく新しい意味でキコクシジョという名を与える。

 あなたが「私」を語り始めるとき、あなたはもうすでにキコクシジョになっている。

 


by 古家 淳

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初出:『季刊 子ども学』 17号(1997年10月)
転載許可ベネッセ教育研究所



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