私情つうしん 第9号 1997年2月発行

OとFとの往復書簡


 この欄は、大山智子(O)と古家淳(F)の間の往復書簡という形の連載です。二人とも帰国子女、折々にもった疑問を互いに問い、互いに答えていくなかで自分たちの考えを深めていくことができればと思っています。
 飛び入り参加も歓迎しますので、どなたでも気軽に割り込んできてくれたらうれしいと思います。

English translation is here


大団円

第9信−−FよりOへ


 前回のオーヤマのお便りを見て、ぼくは「とうとう、一致してしまった」と思いました。結局、世界中の「文化」をつまみ食いしながら自分だけのアイデンティティをつくっていくことを、ぼくも目指していたのです。たまたま日本という国家のパスポートを所持しているからといって「日本」という名のついた伝統文化のパッケージを受け取らなければならない、という議論には決別するほかありません。
 でもぼくたちもやはり、他の人間と向かい合うとき、なんらかの「文化」が必要であるという自覚はあります。ある地域に住む人々の中に連綿と受け継がれてきた伝統を無視してもいいとはまったく思いません。ただぼくらにとって「ふるさと」とは、一つの民族に伝わってきた地域的な共感だけではなく、空間的に拡散しつつ時間軸に従って積み重なっているある種の「歴史認識」なのではないかと、思うのです。
 ぼくは「日本」と名札のついたパッケージの一部をすでに身につけています。しかし同時に、ぼくの育った外国、あるいはぼくの知っている外国語にかかわるパッケージの一部も持っているのです。本当は世界各地のさまざまなパッケージをなるべくたくさん持ちたいという野望も潜めています。砂漠で気温が乱高下する実感も、靄の中に自分の影を見失う曖昧さも味わえるようでいたいと思います。英語で語らうときにはこのコトバの持っている伝統を踏まえたいし、中国語が理解できるのなら数多くの故事に精通していたいと思います。西欧文化の人と話すときにはキリスト教の裏も表も知った上で相手の深層を理解したいと思います。イスラム教はまったく未知の世界ですが、興味はあります。もちろん、日本の心性といわれるようなものを築いてきたものもより深く感じとりたいと思います。めざすのは、multi-lingualでもmulti-culturalでもなく、multi-heritageです。
 でも、とぼくは繰り返さざるを得ません。伝統を尊重することは何にせよ過去を無批判に受け継ぐことではないと。ある日本の古典芸能の担い手は、「伝統を尊重するとは、形式ではなくその中にある心を受け継ぐことだ」と語ってくれました。「親殺し」になろうと言っていました。
 ところでぼくたちと同様、「外国を渡り歩いて育った人々」のグループがアメリカにあります。彼らは自分たちのことをGlobal Nomads(地球遊牧民)と呼んでいます。共通点は「一つのふるさと」を持たないこと、いくつかの「伝統」をそれぞれ部分的に身につけ、組み合わせて自分だけの「文化」を持って生きていること。それゆえにこそ、ぼくたちは複数の回路から自分の「歴史」を築くために、ある特定のパッケージに染められることをではなく、それらパッケージへの批判の自由を求めたいと思います。ぼくの描く夢は、ぼくらが何か新しいものを個々のパッケージにつけ加えていくこと、あるいはまたGlobal Nomadsという一つのパッケージをまるごと作り出すことです。その意味で、ぼくらの「ふるさと」は、未来にしかないのかもしれないと思います。
 1年半にわたり続いたオーヤマとの「往復書簡」ですが、どうやら大団円のようですね。もしかするとまさにこれから、互いに違う「歴史」を交流し合っていくことが大切なのかもしれませんが、それはまた別の場を設けることにして、Repatriateという単語から始まり、Global Nomadあるいはmulti-heritageという単語に至った、第一次「往復書簡」はここで休止符を打つのがいいのではないかと思います。

 ということで、素気なく終わりましょう。では、いつかまた。

(F)


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