私情つうしん 第9号 1997年2月発行
Identityと言う言葉に出会ったのは、1959年、人種差別反対運動の最中のシカゴだった。別に私自身が反対運動の闘士だったわけではない。その時、たまたまフォークソング熱にとっつかれ、下手なギターを何とかしようと、フォークソングの学校に通っていた。ギターはいつまでたっても上達しなかったが、ある日ふと気がつくと黒人やユダヤ人のグループにまじって差別反対運動のビラはりをやっていた。フォークギターの練習もアイデンティティについての議論も常にいっしょで、皆でつばをとばしては叫んだり歌ったりしていた。当時は全く明白に理解出来ていたと思っていたIdentityの意味が日本に帰って来たら、だんだんあやしくなった。先づ、日本語で何と言ったらいいのかさっぱりわからない。あれこれ、探していると「自己同一性」と言う言葉につきあたったがピンと来なかった。
1950年代末から60年代にかけて、ほとんどの有色人種が鮮明に差別されたシカゴで私が確信したIdentityとは「人間が安心して生きるために絶対必要な心の根っこ」であり、「人間が人間社会の中で他にかけがえのない一人として存在出来る軸」と言うことであった。二つを整理して自分で「安定根」と言う言葉を造語したが、日本人社会は既に先祖伝来の根があみのようにからみあって出来た根っこの壁の巨大さだけが目立ち、一人一人の根としては「ふるさと恋しや」と言う感覚で統一されてしまっているようだった。私は人と「安定根」について話すことはなかったが長い間、自分自身の安定根がどこにあるのか? と思案していた。いくら考えても一枚岩のような、日本的Identityの壁に私の安定根はよりつけなかったし、壁の方も受け入れなかった。ムリしてへばりつく程のエネルギーもなく、かと言って中に漂うゴミのような不安定さはあまりいい気持ちではなかった。そういう奇妙な不安定感に変化がおきたのは、私の育った町ウラヂオストックを55年ぶりに再訪して帰って1年程すぎてからだった。たしかに子供時代の9年を暮らした町の再訪は私にとって最大の感動だったが、それだけではなかったのである。どうもある日気がつくと、再訪以前の自分と、以後の自分とが、全くちがう人間になってしまったような不思議な感覚がするのだ。そしてみるもの、きくもの、考えることのほぼ全部についての焦点がじわじわと安定し、いつの間にか不安定感が消えていた。私は、はじめて自分が、自分の安定根のありかをみつけたことに気がついた。
そこは、ウラヂオストックの町そのものでもなく、古びたままペキンスカヤに建っていた家でもなかった。私にとってウラヂオストックの町並みはロシアであったし、育った家は両親が住む日本そのものだった。その両方に私の安定根はなく、ペキンスカヤから入って来た中庭のベンチに存在していたのである。日本人学校は当時、日本国内の授業課程をそのまんま持ちこんでいたため、日本を知らない私には理解出来ず、途中のロシア人の町とそれ程親しくもなれず、自分の住む家の中庭のベンチに一人すわった瞬間から私一人の存在がはじまり、庭の向側にある我家の玄関をくぐるまでは、その貴重で豊かな世界がつづくのだ。そして私の安定根は、そのベンチで風の音をききながら育って行ったのだろう。再訪から5年、私は今幸せな71才だ。ウラー!