私情つうしん 第9号 1997年2月発行
私が初めて「越境文学」という言葉を思いついたのは、石川好氏の『ストロベリー・ロード』を読んだときのことだ。一つの社会のしがらみ−−関係性の束−−から解き放たれた作者が、何者でもない自分として生き始める時の心もとなさと、新しい世界で自分を獲得していくみずみずしい躍動感が、たまらなく良かった。彼の目に映る人々、例えば早期の日本移民たち、フィリピン人、メキシコからの季節労働者たち、そして彼が思いを寄せる年上の日本人女性も、越境することの喜びと悲しみを抱えて生きている。そういった人達の中で成長していく作者のまっすぐな視線が、すがすがしくて気持ちよかった。こういう作品を集めて紹介してくれたら、片っ端から読むのに、と思い、それ以来、「越境文学」と呼べる作品を探しているのだが、なかなか「これは」という作品に出会えない。旅行記や比較文化論のような、安全圏からの視点では、どんなに優れた内容でも−−近藤紘一『サイゴンから来た妻と娘』ほか、上田紀行『スリランカの悪魔ばらい』、野田正彰『狂気の起源を求めて』などはほんとうに素晴しい内容なのだけれど−−越境文学とは呼びづらいからだ。姜信子『私の越境レッスン・韓国編』は、祖国という名の異文化との抜き差しならない関係を描いていて秀逸だ。井田真木子『小蓮<シャオリエン>の恋人』は、非常に優れたルポルタージュであり、とても感動的でもあるけれど、越境者ではなく、越境への並走者からの視点であるから、厳密に言うと少し違うかもしれない。
と、まあ、ちゃんとした定義づけもできないくせに勝手なことを書き連ねてしまいました。しかし、英文学がサルマン・ラシュディやカズオ・イシグロ抜きで語れなくなったように、日本語による文学も、外国からの定住外国人や留学生の手で生み出されるようになってほしいものだと願っています。