私情つうしん 第8号 1996年9月発行

帰国子女が親になって思うこと

by 塩崎万里


  『私情つうしん』いつも興味深く読ませていただいています。
 これまでの人生を振り返ると、日本と外国とを行き来し、学校から学校、職場から職場へと生活環境が変わるたびに、自分の生育歴についてまわる「帰国子女」という部分を無視しようとしてみたり利用しようとしてみたり、試行錯誤の連続でした。そんなことにこだわること自体がどうかしていると思ってみたりしてもなかなか振り払えずにいました。そんな時に舞い込んできたのが『私情つうしん』でした。嬉しかったです。「そうそう、この感覚、私だってそう感じていたんだ」と共感することができたのと同時に、日常経験する周囲との小さな摩擦について考えること自体を抑圧して適応してきた私自身についても改めて考えさせられました。
 今、年齢的には人生の折り返し点を迎えたところで、「帰国子女」として日本の学校への適応に苦労したのは遠い過去の話なのですが、年月を経るにつれてかえって明確に自覚される部分があるとも感じています。初めて帰国したときのあの緊張、目立ってはいけないとあたりの様子をうかがっていたときの気持ちは、その強弱に差があったとしても今でも職場や子供の学校の父母会で感じる違和感と同質のものです。
 そのうえ私は成人してからも配偶者の転勤で合わせて6年間近くエジプトとインドネシアに滞在し、そこで仕事にもつき、3人の乳幼児を育てていました。一家で帰国して私自身は大学院に復学し、子供たちをそれぞれ保育園、小学校に編入させたときのズレは半端なものではありませんでした。私は帰国子女に輪がかかった「再帰国大学院生」で、そのうえ「帰国お母さん」として、「帰国子女の子供である帰国子女」の適応に苦慮しなければなりませんでした。
picture インドネシアでは家族の人数よりも多い6人のインドネシア人のお手伝いさん、運転手さんたちに囲まれ、英語の幼稚園、小学校に通っていた子供たちは、英語とインドネシア語を主たる言語にしていました。このこと自体、日本人の家庭では珍しいことでした。その前にエジプトで子供たちをアイルランド系のNursery Schoolに入れた段階から、わが家の家庭環境はほかの多くの海外滞在日本人から外れていたのです。エジプトにも日本人だけが集まって乳幼児を遊ばせるグループがいくつかありましたが、私たちはヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカの各大陸から来た人々がほどよい割合でまざっていたNursery Schoolに通わせることを選択しました。必然的に子供たちの社交の場であるbirthday partyにはいろいろな国の方々からお招きを受け、親しくなったお母さんたちも実に多様でした。私自身は娘時代にも通ったことがあるAmerican University in Cairoの大学院で日本ではなかなか学べないPsychological Anthropologyのコースの聴講生になりました。そのほか、これも娘時代に通っていたフランス文化センターでフランス語を学び、また別のところではアラビア語を勉強していました。日本人会に入り、そのメンバーだけとテニス、ゴルフ、ブリッジに興じていた大多数の日本人奥様とは大きな違いがありました。私たちはとても「変わった」家族だと思われていたのではないかと思います。
 この傾向はエジプトの10倍以上の人数の日本人が滞在しているインドネシアではさらに目立ったようです。ジャカルタにはかなり大きな日本人学校がありましたし、日本人だけの幼稚園もいくつかありました。それでも私たちは長女を、つづいて次女を、British International Schoolに入学させました。この学校で日本国籍だったのは彼女たちだけでした。放課後はInternational Community Activity Center (ICAC)という、'expatriates'のためのカルチャーセンターのようなところでインド人の先生に油絵を習ったり、アメリカ人の先生からバレーを習ったりして過ごしました。現地の子供たちのために開かれた「ヤマハ音楽教室」でインドネシア人ばかりの中に入り、インドネシア語で音楽を習ってもいました。前任者から引き継いだ借家の契約期限が切れたとき、引っ越したのは日本人が誰もいないけれど、娘たちの学校には近い場所へでした。私自身は心理学の資格を生かしてICACでカウンセラーとして働いていました。この土地でも私たち一家は、大人は日本人会の仲間とのゴルフ、ブリッジ、テニス、子供たちは日本人学校に通い日本人会の漫画やビデオを借り、ピアノや水泳などのお稽古ごとも日本人の先生に習うという大多数の日本人滞在者の生活モデルから大きく逸脱していました。
 このように書いてくると私は何か、日本人を避けて暮らしていたように思われそうですが、主観的には自分たちのしたいことを選んでいたら結果的にそうなってしまっただけのことです。でも、このような選択をすること自体、やはり多数派から見れば「変わっている」ことですし、こんなところにも私の「帰国子女」的な性格が脈々と息づいていると感じてしまうのです。
 一家が帰国し、新生活が始まったとき、浦島太郎はこんな気分だったのだろうかと想像するほどの困難を感じました。まず第一に、子供たちは日本語が下手でした。親がきちんと日本語で話しかけていればそんなことにはならないとおっしゃる方も多く、私自身もそのように思っていたのですが、それはもしかすると私を育ててくれた両親のように圧倒的に日本語が優位な親がいる場合の話なのではないかと思います。子育てというプロセスは、ある意味では親自身の過去を生き直す過程でもあるわけですが、私のように子供を育てている親自身がカナダ生まれでアメリカ育ちという家庭では、親自身の過去に日本の幼児文化が欠落しているのですから、それが次の世代に影響を及ぼさないわけがありません。私にとっては日本の昔話や童謡よりもNursery songsやFairy Talesの方がはるかに親近感があり、会話も英語の方が楽なのです。「舌切り雀」や「ぶんぶく茶釜」などの絵本を読んで聞かせることはできても、そこになつかしさは何も感じられない親、そしてたとえ絵本といえども読み始めたとたんに「ムカシってなぁーに?」「アルトコロってなぁーに?」と一語一語説明を要求する子供。こうした状態では同世代と同質の文化を伝達することは極めて困難かつ不毛な作業だと感じられるのです。
 帰国して初めての秋を迎えて長女は、「ママ、葉っぱがいっぱい落ちている! 珍しいから拾ってきちゃった!」とポケットに落ち葉を詰め込んできて、「でも木が全部死んじゃう」と心配しました。あれから6年が過ぎ、さすがに落葉樹というものをしっかりと理解してそのような心配をすることはなくなりましたが、一方では強い個性を持って成長したが故に悩むことも多い年齢にさしかかってきました。同年齢の子供たちは彼女のような育ち方をしている子供に対して「なぜなの?」「どうしてなの?」を連発します。わが家の子供たちのアイデンティティの確立について、気になってきています。
『私情つうしん』で、すでに親になられたかつての「帰国子女」の方々のお考えを聞かせていただきたいと思います。

 


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