私情つうしん 第8号 1996年9月発行

ペキンスカヤの中庭で  (6)

by 中津燎子

連載の前の回

 昔々、と言っても15年位前のことだが、私はある日、ある場所で、ある「キコク子女」と話していた。そして突然、爆発したように「ねえ、星になるのよ! 天の星になって地球をみおろすのよ! そしたら、母国も外国も全部みえるから、自分の将来だってみえる筈よ!」と叫んだ。
 当時の「キコク」たちは大体に於いて、「フツウでないヤツラ」と言う形容詞をくっつけられていたから、どっちをむいても、まァ、ロクでもないことが多かった。私が帰国した数十年前も同じように、ロクでもなかったから日本は外から戻った人間にとって相変わらず全くロクでもない国である。私は心から現代のキコクとその親たちに同情しながら話しをきいていた。ちょうど、年代からして私の子供とその子、つまり孫にあたるような若い子たちにやさしく、親たちにはどうしてもきびしくなるのは仕方がない。
「うちの親はね、アメリカに着いたその日から英語英語でうるさくて、それでやっとクラスで上の成績をとったら次の年には転勤で帰国でしょ。またもや日本人なんだから、日本語出来なきゃ大学にも行けないし仕事にもつけないからって毎日うるさいの……」
 とぐちをこぼすのをきいたとたんにカッとして「全く、子供をヨーヨーみたいに扱わないでほしいね!。コントラクトもなしに外国につれて行ったのは親なんだからね!」と顔をしかめた。その子はあわてて「私のこと、心配しているからなのヨネ……」と親をかばうからいぢらしい。私が出あった「キコク」たちは、男女を問わず、親思いのいぢらしい子が多かった。
「勝手に子供を外国に移しておいて、その土地の色がしみたからと言って罪人扱いにするなんて、許せん!!」と真っ向から親に反抗し、憤怒の固まりだった私の十代、二十代の頃にくらべると何ともおとなしい。 出て行った先の風土の色に染まった子供や若者の将来についてどう思うか? ときかれて、つい、爆発したのが「星になれ!」と言う叫びだった。
「外」と「内」をとことん差別する文化に戻って来た、海外製日本人のとる道は今の所、おおまかにわけて三つ位じゃないか? と思う。その(1)は「星になって空から地球のすべてと日本を観察、比較、分析して、自分の腕をふるうことが出来る仕事を探すか、作り出すこと」。その(2)は、「空が高すぎてイヤな高所恐怖症は、風に吹かれてしか動くことが出来ない地上の塵となってその日その日を地道に生きること」。その(3)は、「星からも、塵からも逃げて逃げまくり、一生を逃げながらすごすこと」。
 以上の三つの中、最もラクチンなのは「塵になること」ではないだろうか。同じ地上にはルーツを持って日本人の家族や親戚も住んでいるし、その人たちの根っこにひょいとからまって生きることも出来る。天にのぼってしまうと、まァ、ルーツ族たちとは別れて「マイ・ウェイ」を生きなければなるまい。星は常に天空に独り輝くのである。ところで私自身は、「夫」と言う根っこに半分からまって、あとの半分は、ときどき、出来るだけ首をのばしてあちこち観察、分析している「ろくろ首の塵」となって暮らしていて、あまり不足も感じない。70才の塵としてはいい方だと思うが、「もし30年程若かったら、きっと星になるため大空中をかけめぐっただろう!」と思う時もある。ハハハ……。


プロフィール
1925年福岡市に出生。3才で、日本領事館で通訳として勤務する父に連れられて旧ソ連領のウラヂオストック市に渡る。1936年、日本に帰国。戦後、1956年渡米。結婚し2児を連れて1965年帰国。以降、英語塾を開き、東京・大阪・九州で異文化対応と発音訓練を教えて現在に至る。