私情つうしん 第7号 1996年6月発行

OとFとの往復書簡


 この欄は、大山智子(O)と古家淳(F)の間の往復書簡という形の連載です。二人とも帰国子女、折々にもった疑問を互いに問い、互いに答えていくなかで自分たちの考えを深めていくことができればと思っています。
 飛び入り参加も歓迎しますので、どなたでも気軽に割り込んできてくれたらうれしいと思います。


翼を持つ蛇

第7信−−FよりOへ


 かつて、風見鶏とあだなされたN首相が「国際人を育成しなければならない」という文脈の中で、「国際人であるためにはまず日本人でなければならない」と言ったの、知ってますか? へえ、と思いました。つまり外国の人はたとえどんなに多民族国家で異文化の交流に慣れていようが、多言語社会で生まれ育とうが、国際人にはなれないんだと思いました。単一民族神話のムラ社会でまず国家的アイデンティティを獲得しなければならないんだとさ。
 外国で育った子ども達が日本にとって「金の卵」だとするリクツはもう30年も前からあるけど、それとともに古くからある言い方で、「とはいっても、根無し草のコスモポリタンでは困る」というのがありました。「金の卵」なんて、決して食えたシロモノじゃないし、それを生むニワトリになんかなりたくもないと思っていたけど、このコスモポリタンうんぬんも結構アタマにカチンとくるものがありますよね。コスモポリタンてコトバがヘレニズムの昔からあるってこと、知ってて言ってるのかしらん。アテネやスパルタなどのポリスを渡り歩く吟遊詩人みたいなイメージがあって、好きなんだけど。
 ともあれ前回のお便り、「植物的文化アイデンティティ」という指摘には、かなり楽しませてもらいました。植物でなければ動物なんでしょう、やっぱり。どっかの国の歌に「石に苔のむすまで」なんてフレーズもありましたけど、これは岩石的アイデンティティ?!
 それでね、ぼくは思ったのだけど、ぼく自身はリクツの上ではとっくに「動物的」にとらえていたにもかかわらず、自分の中の体質としては結構「植物的」なのかなという感じです。自分自身の根っこがほしいと熱望したこともあります。だって翼はすでに持っていると思っていたから。
Quetzalcoatl  ただ、たぶんあなたと違って、ぼくは根っこと翼と両方ほしいと思っています。ぼくが住んでいたことのあるメキシコの古代神話における主神はQuetzalcoatlという「翼を持った蛇」です。蛇はもちろん大地の象徴ですから、これこそが根っこと翼との予定調和の姿なんでしょうか。
 そしてまた根っこは複数であっていいとも思っています。なにも特定の土壌に根ざす必要なんかなくて、あっちにもこっちにもあっていいし、海にあっても空にあってもどこにあってもいい、むしろ数多くの根っこを持っていたいと思っています。
 ただ、にもかかわらず、根っこを求めることは、「くに」なんてものとの対決も迫られる両刃の剣になります。それも含めてぼくはおもしろがっているつもりなんですが。
 もしも翼を持っていることだけで、「うごくことによりアイデンティティが獲得される」と心の底から考えられるなら、とっても気が楽になると思います。その感じを、あなたは体現しているんでしょうか。
 ところで蛇足を加えずにいられないのは今回の手紙の当然の成りゆきですが、冒頭で紹介したN氏への反論はもちろん、「国際人でなければ日本人になれない」と言うのがもっとも正当かと考えています。どうでもいいことですが。
 じゃね。次を楽しみにしています。

(F)


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