私情つうしん 第7号 1996年6月発行

今、考えること

by 地曵裕子


 また、中学3年生が、いじめが原因と思われる自殺をした。こう言っても、え? どの話? と聞き返されるほど大切な命が相次いで失われている。騒ぎ過ぎは戒めたいが、「またか」という諦めの心も恐ろしい。
 その日の朝、少年の死は新聞の社会面に大きく取り上げられていた。横には、同じ中3の男子が同級生に恐喝されたという記事が並ぶ。セットで組み合わせる問題ではないのだが、その時の私はそれを気にする心のゆとりもなかった。記事を斜めに読み、それから一つ溜息をつき、間も置かずに他の用件に埋没した。
 ところが翌日、大学1年の長男が言った。
「ネェ。あの、自殺した中学生。知ってる? 剣道部だろ? 学級委員だろ? なんか人ごとに思えないんだ。新聞呼んで、ドキッとしたよ」
「そうね。私も気になってたわ」
 嘘だ。本当はその時、私の頭の中は他のことで占められていた。しかし彼の瞳が真剣だったので、「エ? エ?! 何の話?」なんていう気の抜けた返事はできない。体裁を繕ってしまった。
 長男の言動は長女のそれと共に私の話の種になり人前に晒されることが多いが、実際の彼は呑気が服を着て全エネルギーの20%ぐらいを使って息をして生活しているような人間だ。掛けてから切るまでが15秒といった電話を友人にすると思うと、突如として熱を帯びて話し始めたりする。中国の三国志や新発売のCDの話まで、こちらも聞くだけでなく、ひとくさりの意見を言いたいとなると、けっこう幅広い目配りが必要になる。
 そんな長男が私の前で、見知らぬ少年の死を悼んでいた。私はそっと記事を読み直してみる。状況を淡々と追った内容だった。この少年に対し、学校側はそれなりの対策を取っていたようにも読める。担任も少年の自宅を訪れている。「それじゃ、なぜ?」という疑問が湧いてくる。
 その翌日、同じ紙面に、文部省がいじめ問題への対策などを協議している「何とか協力者会議」というひどく長たらしい名前の会議の委員に、自殺研究の専門家を加えるという記事が載った。そして次の日、社会面の片隅で、少年の葬儀の様子が報じられる。父親はニューヨークに単身赴任中だという。もしかして少年は、私の子供のように途中で帰って来た帰国生かもしれない。そうでなくても彼にいったい、何が起こったのか。知りたいという思いに囚われ始めた。
 その何とか会議が、生徒指導の研究者や現役の学校長らの「有識者」を集めてみたところで、根本の解決になるとは思えない。人が一人一人異なるように、いじめの背景もそれぞれ異なる。子供を指導するより、死を選んでまで抜け出したいと願った環境(学校)そのものの体質を問い直す会議であって欲しいと思う。「みんな一緒」に執着する余り、突出することを何より恐れる教育を、だ。
 突然だが、私は天秤座の生まれだ。ホロスコープもそれほど信じているわけではないが、何かに熱中したいと願っているのに、気がつくと身体の中の重りが器用に動いてバランスを取ってしまう。そのために破滅を逃れてほどほどの人生を送って来たが、どことなく面白くない人間だと自分では思う。幼い頃はいつも夢の中で暮らしていたのに、最近はノンフィクションの世界に心が向いている。たまの原稿料を頂く仕事は、かつて住んだ外国の様子を描くものが大半で、どうしても真面目にかつ誠実にならざるを得ない。こんな自分に疲れを感じることがある。
 そんな時、長男のひと言に出合った。
 気がついたら私は鋏を手にして、少年の記事を切り抜いていた。ついでに古新聞をひっくり返し、関連のある記事も切り取る。スローな動作が心に追いつかない。手先が震えていた。私が普通、手が震えるのは、空腹に耐えられない時か、下手なテニスをした後ぐらいのものだ。揺れる鋏が不思議だった。
 私と長男がニューヨークから帰ったのは、1989年の3月1日のこと。中学校入学の直前で、夫とハイスクール10年生の長女を残しての帰国だった。その時、長男は現地校の7年生で、日本の小学校には時期的にも通う義務はなかったが、私は彼に小学校の給食を体験させたいと願った。幸い役所や学校関係者の好意に恵まれ、長男は仮住まい先の公立小学校で卒業式までの20日間を正式な生徒として過ごすことができた。この、日本定着の助けになった生活については、いずれ別の機会に紹介するつもりでいる。とにかく彼は無事に卒業式を終え、4月から某国立大の附属中学校に入学した。まだ日本人に成りきれない新入生だった。しかし、この中学が帰国子女受け入れ校であることに、私は安心しきっていた。
 長男は入学してすぐに剣道部に入る。外国に住み始めてから日本の時代劇のファンになり、それが高じて自分が剣士になってしまった。おまけにクラスの副委員長や合唱コンクールの指揮者などを次々と引き受けてくる。
 他になり手がいないんだ、と言っていた。
 そんなゴールデン・ウィーク直前のある日。
 家の電話が突然、鳴った。
「お母さん。今、帰りなんだけど、足が痛くて歩けないんだ」
 苦しそうな長男の声だった。
 クラブや授業のランニングがキツイというのは聞いていた。ニューヨークの現地校の体育は遊びの要素が強く、日本のように身体を鍛えるということがなかった。慣れるまで仕方がないと高をくくっていた私に、まず長男の足のアキレス腱が悲鳴を上げた。連れて行った整形で青黒く腫れ上がった足首を見せられて、私は母親としての迂闊さを知る。アキレス腱は切れる寸前だった。その報告と欠席の届けのために担任の教師に電話をする。ついでに何気なく長男の様子を聞いた。
「あの子、学校で、どんなですか?」
 担任の声は予想外に暗かった。
「いやぁ、かなり問題がありますねェ」
 堰を切ったように担任は続けた。彼はクラス委員としての自覚がない。まとめ方を知らない。それにクラス全員が笑う時に彼だけ笑わず、関係ない時に一人で笑ったりする。授業中に喋り過ぎる。などなど。「彼は帰ってから、まだ2カ月経ってないんです。もう少し長い目で見て頂けませんか」と私は言った。
 その後、長男は驚くほど早く同級生に同化して行く。しかし帰国生を理解しない担任にとって、彼は異邦人であり続けた。
 中3の少年の死は、私に瞬時に当時の記憶を蘇らせた。今は夫も長い単身赴任生活を終え、私のアメリカと日本との往復生活も終わった。
 長男も幸い仲間外れには合わなかったが、歯車が一つ狂えば彼はあの少年になっていたかもしれない。長男は親にもプライドを保ちたい性分で、悪い話はひた隠しにする。世間は時として自殺した子供の親に無言の批難を向けることがあるが、子供のプライドに風穴を開けるのは難しい。
 そんなことを考えながら、私は少年と同じ町に住む友人の一人に電話を掛けた。友人は私のために、この問題を調べてみると約束した。もう少しこれに関わってみようと思う。
 いずれまた、皆様にご報告したい。