私情つうしん 第6号 1996年4月発行

OとFとの往復書簡


 この欄は、大山智子(O)と古家淳(F)の間の往復書簡という形の連載です。二人とも帰国子女、折々にもった疑問を互いに問い、互いに答えていくなかで自分たちの考えを深めていくことができればと思っています。
 飛び入り参加も歓迎しますので、どなたでも気軽に割り込んできてくれたらうれしいと思います。


「ホモ・モビリタス」

第6信−−OよりFへ

 続きますねえ。「帰国子女」をめぐる話。リアクションが数多く寄せられることが嬉しいです。
「自分は自分」と言うことは当たり前に過ぎて「それを言っちゃあ、おしめえよ」なのだけれど、自分の文化的アイデンティティのとらえ方として「日本」に対する意識は希薄だな、って感覚を言っておきたかったというのはあります。こだわりが淡泊になってしまったんですな。あれこれ考えるうちに。ところで、文化的アイデンティティといえば、「根を張る」とか「根無し草」とかどうして植物的に表現されるんだろう、と疑問に思うことがあります。なるほど、文化とはcultivate(培養)する/されるものなんでしょうか。
 片倉もとこさんがアラビアの遊牧民の生活について書いた『「移動文化」考』(日本経済新聞社、1995)という本の中でこんな感じの文章がありました。
「生まれたり育ったりしたところに死ぬまでいるという人は、少なくなっていくだろう。移動して人生を終わる人のほうが、はるかにおおくなるだろう。」「それに応じて、生まれ育ったところで、人々が共有していたものの考えかた、すなわち価値観は、移動したさきざきの価値観に影響されて、それぞれの個人が独特の価値観をもつようになるであろう。すなわち、ある地域に属した価値観といったものは相対的に少なくなり、人に属する価値観のほうが問題になってくるであろう。属地的価値観から属人的価値観へ移行する道のりに、人間はあるといえる」
 読んだ時、まさに我が意を得たりの気分でした。片倉氏によれば、21世紀は「あたらしい遊牧民」の時代。交通手段も情報網も発達した時代に、人々は国境も文化圏もまたいで活発に移動するようになるだろうと言います。そして、移動しながら生きるという暮らしのスタイルをことさら新しいものとして取り上げるのではなく、「うごくことによりアイデンティティが獲得される」と考えるベドウィンたちの暮らしぶりになぞらえて「あたらしい遊牧民」と名づけるのです。「あたらしい遊牧民」をして「ホモ・モビリタス」と言う片倉氏の言葉を目にして、私は、そうなんだよ、文化の土壌に根っこを張る植物じゃないんだよ、とやけにエキサイトしてしまいました。
 思いついたことをつらつら書きました。尻切れトンボだけれど、このへんで。
(O)


筆者に手紙を出す
お手紙は編集部にも届きます。