私情つうしん 第6号 1996年4月発行

世界観を変えた左きき

by 大山智子

English translation is here

「オーヤマさん、もしさ、会社の備品、使いにくいようだったら自分専用のを経費で買ってもいいからね」 職場の新顔である私に、社内のムードメーカーである経理の姐さんが言った。
「はさみとかさ、使いにくいわけでしょ、やっぱり」
 ああ、そういうことか。はさみ、ね。はいはい。世の中、手作業に右手を主に使う人々が多い中で、どういうわけか、私は左ききというマイノリティとして生まれついている。ペンを持つ瞬間、食事で箸を手に取る瞬間、「あ、ぎっちょなんだ」というコメントを初めて会った人が言わずにはいられない、そういう種類の人間なのである。姐さんの言葉は「左きき用のはさみを買ってもいいよ」というあたたかくもありがたい申し出であったのだ。
 ところが、どっこい。幼少のみぎりから左手にクレヨンを握り、「女の子なのに左ききなのはみっともない」と心配したおばあちゃんの努力にもかかわらず、頑固一徹左きき。それだけに、この右きき中心社会に自分を適応させて生きてきたキャリアは豊富なのである。たしかに「右きき用はさみ」を使えば、右ききの人が使うのとは刃の重ね合わせが逆になる。けれども私にとってのはさみとはそういう道具なのだ。小学校へ上がる前に「左きき用はさみ」なるものを用意したが、すでに私が「右きき用はさみ」を左手で使うことにすっかり慣れてしまっていたのか、それを開発した文具会社の人が右ききだったのか、その切れ味たるや劣悪だった。それ以来「左きき用はさみ」を手にしたことはない。
 左ききの人の中には、テーブルにつく時、わざわざ左端の席について右ききの人と肘がぶつからないように気を配る立派な人がいるけれども、私自身は自分の左ききにかなり無頓着だ。というより、日常において忘れ去っている。「ぎっちょなんだ」と言われてはじめて「おお、そうであった」と思い出す。左ききを指摘されることに何の感慨もない一方で「だから何だ」という気持ちも否めない。「左ききのわりに上手に字を書くねえ」などと猿が字を書いているように言われれば「たかが鉛筆を右で持つか、左で持つかの違いじゃないか」と内心閉口したりもした。自分が字を書いている姿は自分では見えない。私の目に映る「字を書く姿」はみんな右ききだ。だから自分もそういう姿であることを信じて疑わなかったのだ。そう、実際に自分の目で見るまでは。
 マイノリティであることには変わりはないにせよ、アメリカでは左ききの人間が、日本より遥かに多く生息していた。彼らは、左手でボールペンを握り、横書きで書いた文字のまだ乾ききらないインクを手でこすらないよう、腕を大きく迂回させ、右方向から字を書くのである。そんな左ききの同胞を目の当たりにして、不覚にも私はつぶやいてしまったのだ。「あ、左ききだ……」。
 本当のことを言うと、左ききが目についたのではない。体をよじりながら字を書くその姿にまず目が釘づけになった。なんてヘンチクリンな、と思ったその瞬間に、「あ、ぎっちょなんだ!」と言わずにはいられなかった右ききの世界の住人たちの態度が呑み込めたのである。
 それからというもの、私は世の右ききたちに寛容になった。ただ傑作だったのは、アメリカから帰国して間もない頃、知り合った男の子に告白されたうれし恥ずかしのセリフ。「だってさあ、オマエ、帰国子女で東大生で左ききじゃん」。彼が私の何を気に入ったのかはその説明をもってしてもナゾだが、愛の告白に左ききが登場したのは、後にも先にもこれっきりだ。


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