私情つうしん 第6号 1996年4月発行

定本:内国子女教育の歴史

第3章 戦後日本教育の展開

§1 ムーミン教育の発端

文・古家 淳
挿絵・本多さつき(多忙につきお休み)

連載の前の回は?

 話は1945年にさかのぼる。戦勝国代表たるマッサカサー元帥は、その占領政策の基本を日本人から勤勉さをとりあげ享楽的なユーミンとし、しかもこの国土を離れてフーミンと化すことに置いた。この思惑に乗って海外に出たユーミン・フーミン達の活躍は前章までで語った。
 ところがこうした潮流にどうしても乗り遅れる人々はいつの時代にも、どこのくににも存在する。ノーミンと呼ばれるそのほとんどが一次産業に従事し、そこでは天然自然の万物から直接、知恵をいただくことが最善とされた。この時期にもてはやされた箴言に「書を捨てよ、森に出よう」というものがあるのはまったくこのあたりの事情を反映してあまりある。出典は東北出身の詩人で、童話にも秀作が多く残されている。チェロを演奏する趣味もあったそうだ。
 一方、ユーミン・フーミンの政策を曲解ないし誤解して国内に残った人々の中には、労働を拒否し、出家してムーミンと呼ばれることを無常の喜びとする人々も少数ではあったが存在した。かつての国民学校が細々とした私塾に生まれ変わって、その場を提供した。こうした私塾には数え6歳の6月6日に入門するのがよいとされた。入門の当日にはまず師匠となる人に米ないし酒1升を届け、天皇皇后の肖像写真の前で柏手を打ち、しかるのちに、前髪を刈り込んで額に6・6・6とソリを入れる剃髪の儀が執り行われた。髪を剃ることによって豊かな実りを自ら拒否し、「無」に帰依することを表していた。
 だがムーミンの世界にもやがてヒエラルキーが生まれ、天皇の側近を輩出するようになった京都大学がその頂点に君臨した。これを目指してピラミッド型の出世競争が誕生し、日本中の私塾がより高率で京都大学に生徒を送り込む高等塾へ、その高等塾へ送り込むための中等塾へ、と系列化されていった。だがそうした塾への入門者選抜は世界の他の地域とはまったく違った原理に立脚していた。すなわち天皇みずからが世襲制で競争原理にさらされていないという根本的な矛盾を解決するため、入門者の選抜も個人の競争によっては行われないという原則が重んじられたのである。その結果、選抜基準はあくまでも個人の資質や力量などを基準にすることがなく、すべてくじによる抽選によって行われたのである。
 ところがマッサカサー元帥が慧眼にも見抜いた日本民族最大の病弊である勤勉さはここでも発揮された。たしかに個人の努力ではいかんともしがたい選抜制度ではあったが、誰でも神頼みをすることはできる。くじ運が強くなるというような功徳のある寺院は水垢離をする修行者に満ちあふれ、学問の神様といわれるようなところにはお百度を踏む親子の姿が絶えなかった。私塾は空洞化し、寺院が繁盛する現象が広く見られるようになり、私塾の師匠や経営者達は京都大学をはじめとする高等教育機関を非難し、教育の正常化を訴えた。だが教育機関は寺院の非を唱える、寺院は神頼みに走る親子を責める。親子は私塾があてにならない、私塾でも運勢を強くするような鍛錬をしてほしいと訴えるなど、事態は堂々めぐり状態になっていた。

次回、ムーミン・ノーミンの学校文化は?


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