私情つうしん 第6号 1996年4月発行

往復書簡

−−飛び入りYよりFとOへ

from 細本由里


 初めて『私情つうしん』を受け取り、「古家」という名前と「帰国子女」という文字を紙面に見つけた時、私は思わず嘆息をもらしました。古家さんも相変わらずこだわってるなあ、と。そして私は、彼が「帰国子女」について問題意識を持たざるを得なかった時代について数分思いをめぐらしてから、「いずれは読む努力をするけど、今は時間がないの」の青いボール紙の箱に『私情つうしん』を事実上捨てました。
 その後『私情つうしん』は、頼みもしないのに、ときどき郵便受けに入っていました。それらは皆、郵便受けからあの青い箱へ、そしてしばらくするとゴミ箱へというお決まりの手順で、スムーズに破棄されていきました。
 さて、おとといの午後、出がけに郵便受けを見ると、そこには性懲りもなく『私情つうしん』が居座っていました。私はそのしつこさに半ば感心しながら他の郵便物と一緒にそれをバッグに詰め込み、近くの川に渡ってきている鴨たちを橋の上から眺め、新種の鴨を発見した喜びにひたりながら駅までの長い道のりを歩き、プラットフォームの一番後ろへ進んで、来た電車に乗りました。そしてたくさんの空席の真ん中を選んで座り、向かい側の窓から遠くに富士山を認めました。そして、V字形をなして泳いでいる多摩川の鴨たちも確認しました。
 そうして座席に深く座り直してみると、読みかけの本を家に忘れてきたことに気がつきました。突然その時、私はなんの恥じらいもなく先ほどの『私情つうしん』#5をバッグから取り出し、最初から最後までいっきに読み下してしまいました。そしてその日帰宅するなり例の青い箱へ直進し、なぜか処分を免れていたバックナンバー(#3)一通を発見し、それを通読して「内国子女教育の歴史」は#5の方が面白いという結論に達しました。
 ここからが本題です、実は。もちろんOとFの往復書簡についてです。(編集部注:「往復書簡」最新号#3#5へのリンクです)なんといっても私は#5と#3しか読んでませんので(ごめんなさい!)、大山さんという方が何を書いたかは推測しかできませんが、#3の古家さんの書簡には感動さえしてしまいました。とっても素直な人なのですね、あなたは。
 私はこれをきっかけに、自分のアイデンティティーについてもう一度考え直してみました。卒論のテーマにも選んだぐらいですから、「アイデンティティー」という問題については、私も相当こだわっているはずです。古家さんの場合「帰国子女」というレッテルを貼られたことが、例えば私の場合よりも、自我同一性を大きく揺るがす原因となりました。「帰国子女」の場合は、それがやはり社会的レベルのレッテルであるが故、個人に及ぼす影響も深刻なのだと思いますが、私たちは日々、もっと個人レベルのレッテルを他人によって貼られ、また気をつけないと自分も他人に貼っているのだと思います。(そしてそれが原因で私たちの同一性はいちいち揺らいでいるはずです。)それは全て私たちの勝手なアサンプションに則ったジャッジメントなのです。「帰国子女」の場合、それが社会的なスケールで展開されたわけですから、その審判をまともに下された人間としては、たまったもんじゃなかっただろうということは容易に想像できます。
 私に言わせれば、「人はこうである」と決めてかかること、これは全くのナンセンスです。それは傲慢極まりありません。私たちにできることは、相手がどんな文化的背景を持とうと、どんな思想を持とうと、それに対する判断を下して切り捨てたり、それを特殊な分類にカテゴライズしたりするのではなく、それを全面的に受け入れることだと思います。そうして初めて私たち一人一人が、「自分は自分である」と言い切れる社会になるのだと思います。
 相手が受け入れてくれない社会において、「自分は自分である」と言ってみたところで、私の場合は一種のむなしさが残ってしまいます。なぜならそれは切り捨てた側同様、切り捨てられた側の一人よがりだからです。そもそも切り捨てる側が間違っているのですが、切り捨てられた側も「関係ありません」ということになってしまうと、両者の歩み寄りは永遠に望めないでしょう。それを考えれば、どちらの立場に立っていても戦って切り捨てるのではなく、受け入れて吸収することが私たちの行くべき道だと思います。
「帰国子女」というレッテルも、それを貼られた本人である私たちがそれと戦ったり、それを切り捨てたりするのではなく、むしろ全面的に受け入れて消化吸収した上で私たち個人の歩みを続けていれば、それを見ている人たちの間では自ずと誤解が解けていき、レッテル自体が自然消滅するのではないでしょうか。 古家さんは、自分と社会が「矛盾しない、居心地のいい居場所を見つけ」たいそうですが、古家さんの「帰国子女」に対するこだわりが内面的な戦いによる切り捨て作業なのか、それとも消化吸収作業なのかがわからなかった私としては、それが後者であることを知ってとても嬉しくなりました。
 もうこれで「帰国子女」問題について私が持っている意見は全て出尽くしました。これが『私情つうしん』に対する私の最初で最後の貢献(?)であるに違いありません。思い残すことはありません。