私情つうしん 第5号 1996年2月発行
巻頭言
外国で暮らした経験を持つ人は、多少なりとも外国語の習得にまつわる思い出やコトバそのものに対する独自の思い入れがあるだろう。かくいう私も、同情の涙を誘わずにはいられない本が一冊書けるくらい、アメリカ滞在時に英語との格闘の日々を過ごした一人である。
私の経験から言って、言語を習得するのは耳のいい人、あるいは勘が働く(つまり的確な状況把握が本能的に可能な)人の方が比較的速いように思う。不幸にもその両方を持たない私は、ある時は全身を耳にして相手のコトバを理解しようとしたり、話しかけられた場面をもとに何通りものシミュレーションを脳裏に巡らせ、一番妥当なものをエイヤッと選んだりしていたが、それでも全くトンチンカンな応対をして相手の失笑を買うことが何度もあった。
しかし私も、経験から学習する生き物だったらしく、場数をふんでいくうちに自ずと勘が冴えるようになり、ひいてはそれまで識別不可能だった音の羅列が意味を持って私の体中に響くようになった。ひたすら嬉しかった。コトバというコミュニケーション手段の重みをこれほど強く感じたのは、あとにも先にもないように思う。
今は日常的に日本語を話し、読み書きしている。特に注意してコトバを選択しあてがうことが要求されることもある。日本で生まれ育ち、異言語環境に身を置いたことのない人にとっては、当たり前すぎて認識のワクに入っていないとさえ思われる日本語というコトバ。でも私にとっては、母語でありながら一つの外国語のように新鮮で、美しく、奥の深いものに感じられる。日本語の語彙が乏しいからなおさら、初めて出会ったコトバにはトキメキを感じずにはいられない。(でも耳慣れないコトバだと、頻繁に使うようにしないと忘れてしまうのヨネ……)
時が経ち、かつては血肉となって私に宿っていたアメリカでの記憶が次第に風化していってしまうとしても、副産物として享受したコトバに対する敏感さは、いつまでも失わずにいたいと思う。
by 森田美樹