私情つうしん 第4号 1995年12月発行
ペキンスカヤはウラヂオストックの港に近い通りの名である。但し今はアドミラル何とかという名に変わっている。昔、ペキンスカヤであった頃、父の職場であった旧日本領事館の石造りのビルがこの通りの角にあった。そして中庭をかこむように職員住宅がたっていた。私の家はこの住宅の一棟でペキンスカヤに面して窓がいくつもあった。私の勉強机はその窓ぎわにあったから朝晩、あきもせず通りをながめていた。
平成3年、55年ぶりにペキンスカヤに行ってみたら、石造りの領事館ビルはまァまァだったが木造だった我家はよる年波に勝てず、シワクチャ、オンボロとなり、数本以上あった中庭のポプラは只一本だけとなっていた。だが中庭のベンチにすわってあたりをみまわしている私自身もシワクチャ、オンボロ、総入歯なんだから当然だ。すわっているベンチのみかけは昔通りにごつごつと荒っぽいが多分新しいのだろう。すわり心地は全く昔のままで、私が忘れているのにお尻の方が憶えている、あれやこれやをおもい出した。
こういうベンチは市内のあちこちにあって市民の憩いの場だったが日本人小学校に通っていた頃の私にとっても、楽しい道草場所だった。学校で毎日、漢字の山と苦闘し、帰宅するとまた宿題に追われる私は、街中のベンチとそこで出あうロシア人の老人たちが息ぬきになっていた。漢字というのはどうも面白くなかった。日本も見本も、また目本も大して変わらなくみえるし、大分長い間、手と毛がこんがらがったり、数が日本語で数えられなかったり、七転八倒していた。学校や家でしこまれる言葉は私にとって単に「しこまれ語」だったが、自らフシギに思って知恵を絞って意味をつかんだ言葉は「つかみ語」で、私には貴重品だった。
大人たちは子供に何かをしこむのに常に夢中だが、子供自身がつかむ「つかみ語」には冷淡で逆に消しに来る。そのすきを狙ってつかんで来る言葉は日本語、ロシア語を問わず魅力的だった。毎日、日本人学校からの帰りにあちこちのベンチで油を売って楽しくすごし、いよいよペキンスカヤの中庭に戻って来ると、私はため息を何度もくり返すのだった。家に帰ればまた、「しこまれ語」の山なのだ。
ごつごつベンチのすわり心地は私に、自分の「つかみ語」闘争ストーリイをおもい出させたが、それと共にたった今まで全く忘れていた「風のベンチ語」も突然おもい出した。おもい出した、と言うよりからだの中から湧き出して来た感じだった。私はまだ物心つくかつかないかの頃から風の音が好きで、自分でひそかに風と話をしている気分を楽しんでいた。シベリア大陸の烈風が吹くこの町ではいつも風が轟々とうなったり、叫んだりしていた。学校に行くまでは夜、ベッドの中で壁にぶつかり木々をゆする風と話をしながら眠りについていたが、漢字の山と取組みはじめるといつも玄関に入る前にベンチでひとしきり、心の中で風に向かって何かを訴えてからでないと家の中に入れないようになってしまった。言葉にもならず、声にもならず、只思いだけがあって、耳にひびいて来る風の音に無言で叫んだ。声に出してみるとロシア語の間投詞だったり、日本語の歌の一節だったり、また何語ともしれないようなうなり声の時もあった。しかし10分位たつと私は満足してベンチから立ち上がり、家の方に歩いて行った。この習慣は私の帰国まで続いた。風に向かって訴えかけているつもりで実は自問自答をしていたのではないだろうか。自分を言葉に出来ず、かと言って黙していることに耐えられず、ベンチにすわって話をしていたのだ。私にとって、ベンチ語はすなわち母語にあたるのかもしれない。