私情つうしん 第3号 1995年10月発行

ペキンスカヤの中庭で  (1)

by 中津燎子

 私は中津燎子。1925年生まれの70才。さすがに70年生きてくると、奇妙な自信がついて、自分の海外育ちをムリにかくすことはしなくなった。「歩き方がちがうねぇ」と言われればニヤッとして、椅子とベッドで成長したからね、と答えている。
 私の歩き方は全く大人しくない。背中を真直ぐにして、大股で足を前にけっとばすようにして歩く。70才並みに最近神経痛になったから歩巾だけはまともになったが、それでも口の悪い友人に言わせると攻撃準備完了した戦闘機が今やとび立たんばかりの勢いでガーッとつき進んでいるようにみえるそうだ。声が大きく、眼が鋭く、あんまり笑わない。おかしいと思えば大口あけてグ、ハハハ…と笑う。手で口をかくしてホホホなどとやったことは生まれて以来、ない。
 若い頃は母の教えを守って、「外国で育った」なんて一言も言わず、何をきかれても大人しく「わかりません」と答えていた。しかしそんなことに関係なく、今でも私の身のこなしや手の動きや眉毛の動き、あごのつき出し方をみると、まわりの同年代の女性たちとのちがいがはっきりしすぎていて、「何ンだ、これは?」と人々は思うらしい。
 70年の生涯中、外国暮しは子供時代にソ連で9年、大人になってから米国に9年で計18年。あとの52年はちゃんと日本で家庭をもち、2人の子供を育てた。それなのに何故、70才の出来上がり工合が、まわりとちがうのだろうか?
 自分でまじめにハテナ?と考えはじめる、ずっと前から、周囲の他人の方ががまんしきれずに、「何故、人並みになれないのか?」とか、「自分がどんなに変ってるか、気がついているか?」とか、「わざと変人のふりをして自己顕示をしているんじゃないか?」などと言われまくって生きて来た、と言う実感がある。何にも言われなかったのはアメリカに住んだ時だけであった。
 子供たちが10代になって「うちのおふくろ、一寸変ってるよな……」と言い出した頃には、私もかなり真剣に自分と他とのちがい方を分析するようになった。それまでは、言われっ放し、言わせっ放しで、半ばあきらめて暮していたのである。
 改めて、自分と自分の周囲のどこがどのようにちがうのか?と一つ一つ、重箱のすみをつつきまわし、ほじくり出すようにしらべはじめてみると、これが結構、面白いのである。
「ちがい探し」だけではなく、「何故、ちがうのか?」と「原因発見」にのり出してみて、ますます面白くなった。「原因発見」過程の一つとして、私の育った所、シベリア沿海州のウラヂオストックに旅立ったのは平成3年8月のことだったが、まるまる55年もすぎたと言うのに、私が育った家がオンボロになりながらもがんばって建っていたのには心底驚愕した。
 二度とみることは出来ない、と信じていたその家の中庭で、子供の頃と同じように、ゴツゴツしたベンチに腰をおろして、頭上でサラサラとゆれるポプラの大木の葉ずれの音をきいていると、すぎさった時間や、距たった空間がゆらゆらと一つになって私を包んでいるような気がした。表通りからは、ロシヤ語の叫び声や、話し声や、車のひびきがかすかにきこえて来る。半日、そこにすわっていて、私は日本で「人とちがう」と言われつづけた原因の原点とも思えるようなものを、そこで発見した。それは私にとって「考える」ための言葉以前の「母語」だった。
プロフィール 1925年福岡市に出生。3才で、日本領事館で通訳として勤務する父に連れられて旧ソ連領のウラヂオストック市に渡る。1936年、日本に帰国。戦後、1956年渡米。結婚し2児を連れて1965年帰国。以降、英語塾を開き、東京・大阪・九州で異文化対応と発音訓練を教えて現在に至る。