私情つうしん 第3号 1995年10月発行

海外・帰国子女教育への私情  その1

by 清島 眞

 私が海外・帰国子女教育に関わりを持つことになってから23年たった。海外経験もなく、周りに海外勤務を経験した人がいたわけでもない。もちろん海外子女教育の“か”の字も知らなかった私が、なぜここまで関わってきたかというと、海外から帰国した、いわゆる帰国子女たちと出合ったからなのだ。1976年頃のことだ。
 当時、私は、経済界の主導により1971年に設立されたR海外子女教育振興財団に入って3年目の頃で、月刊『海外子女教育』という冊子(財団の中では機関誌と呼んでいた)の編集担当として勤務していた。この頃はまだ、海外子女教育は一部の者の問題でしかなく、社会的には認知されていなかった。そんな中でこの冊子を通じて、海外子女教育問題の啓蒙活動とこの教育の将来展望や方向性についての提言者を探すのは大変であった。いきおい、この教育への関心と知識を持った執筆者を訪ねることとなるが、どうしても経済界や報道関係者が中心になってしまい、また冊子を構成するにしても海外勤務の体験者や母親の意見、海外帰国子女教育に携わる限られた教育者、教育指導者を頼り声を聞くしかなかった。
 さらにこの冊子は、機関誌というだけあり、当初財団の活動を維持してくれるメンバー企業に対する事業報告的な要素が強かった。そんなとき、ある学校の先生の紹介で一人の帰国子女と出合った。
 当時大学生だった彼女は「海外子女・帰国子女教育の問題については、当事者であるはずの私たちの意見や気持ちなど何一つ聞かず、また取り上げようともせず、大人たちの側からしかこの問題を捕えていない」と指摘した。また、価値観の画一化ではなく、複眼的視座にたったものの見方が必要なのだとも、帰国した子どもにとって今必要なのは彼らの居場所探しをサポートすることとその場の提供なのだともいった。
 私はそこで初めて海外子女教育の原点が何であるのかわかったような気がした。と同時に、海外から帰ってきた、帰国子女本人たちから、どんなことでもよい、様々なものに対する彼らの意見を聞きたくなったのである。そして彼らは、全く発想が違う意見をもった私と議論をして、私の意見に対する否定はしても私個人の人格を否定することは決してなかった。色眼鏡はかけないのだ。
 日本に育って30年、人と人との関わり合いの中で、違った行動や意見をいうことによって色々なレッテルを張られながら、周りからジワジワと作られてきた自分。自分自身で枠をはめ、他人の目を意識しながら無意識のうちに周りが期待する“私”という役割を演じてきた私にとって、彼らといるときに初めて、自分が自分でいられることの安堵感と居心地の良さを味わうことができたのだ。そして彼らと付き合っているうちにだんだん“私は私”で、鎧を脱いだ自分のままで良いのだと確信するようになった。  そして海外子女教育問題に対するこだわりがこのときからはじまったのである。
 その頃の海外子女教育推進の考え方は、日本の教育形態にいかにスムーズに溶け込ませるかにあり、また激しい受験競争の中に帰ってきた子どもが、進学や学校教育で不利にならぬようにすることが第一目的にあげられ、これへの対処療法的な対応で良しとされていた。あくまでも教育技術としての日本語や学力、学校生活への適応、受け入れ学校への特別入学(進学)の道の拡大だけであったといってもよかろう。日本の教育のありようを変えようなどという発想はなく、思考方法・行動規範・学力などすべてが日本の価値基準によって計られ、その枠組みの中へ適合することを当然のことし、帰国した子どもが変わることを要求していたのだ。
 私は、この時期から海外子女教育とは、何ぞやと考えだしたのである。