logo 私情つうしん 第24号 2002年7月発行
別れの旋律

by 浦田未央

 新聞によると、『千と千尋の神隠し』がとうとう2000万人(2002年4月現在)の観客を動員したらしい。日本人の5人に1人は観た勘定になる。すごい数字だ。この数字っていったい、どういう意味のものだろうとも思う。そして考える。100人観たら、100人分の感想がある。100人分の見方には、それぞれの人生が投影されている。100人分の人生がそこに映し出されている。
 改めて、すごいことだと思う。

 人と人とが出会う時、最初から別れる時のことなど考える人はあまりいないだろう。でも実際、人生はあまりにも別離に満ちている。出会った分だけ、同等に――いや、もしかして質量としてはもっと大きく――さよならが待っている。

*   *   *

 別れのテーマは、旋律を変えながら、映画の中に何回かあらわれる。まず、作品の冒頭。主人公の千尋は両親の車に乗せられ、引越し先へ向かっている。新しい町、新しい学校に否応なく連れられて行く千尋。彼女の手には、前の学校の友達からもらった花束とカードが握られている。転校に伴う、友達との別れ。自分の意志がまだままならない年の千尋は、だからふてくされてバックシートで寝転がっている。先への希望はないように見える。

 思えば、私たちは大人になるにつれて人との距離の取り方を学んでいく。ここまでなら踏み込んでもいい、ここから先はダメ。相手の負担にならないように、でも忘れられない程度には深く、印象的に。軽やかに、上手に、良い面をなるべく見せるように。適度な距離を保って、良いオトナになれた気に浸って。
 でも、それは人と人との密度が薄くなっているのではないか。濃ければいいというものでもないけれど、関係の薄さに慣れることによって、出会いの輝きを失ってはいないか。誰かと本当に通じ合った時の喜びを忘れてはいないか。そしてそれは、別れの辛さを知ったオトナの、生きていくための知恵なのではないか。

 例えば学校で過ごす時間は、はなから期限がついていることを皆、知っている。(転校生ならなおさら。転校生は、他の人より少しだけ、限られたものの存在を多く知っている。)でもそれだからこそ、限られた時間を謳歌しようとする。そうして人間関係で悩んだり、自我との葛藤を経験したり、心の内をさらけ出して身体の変化に身悶えして、大変な時期を過ごす。そんな時間を共に過ごした友達とは、どうしたって特別に濃い関係になる。
 一緒に過ごした時間への愛惜。もう二度と戻れない――戻って来ない――時間への惜別。そういった時間の、質量。そんなことを思い出して、私は、ただ、ただ、驚く。
 別れをいくつか経験して、私たちは出会いの一回性、有限性を学ぶ。だから、つらい。失ったもの――例えそれが自分の中で、自分でも気付かない形で息づいていようとも――手からこぼれ落ちた目に見えないものに、私たちは心の痛みを覚える。

*   *   *

 別れその2。物語の後半、千尋は銭婆とカオナシとの別れを経験する。そして最後、働いていた湯屋の仲間たちやハクとの別れ。おそらく、彼らはそれぞれ二度と会うことはない。
 でも、ここでの別れは、冒頭のシーンの別れとは、本質的に違う。ここでの別れは、千尋が自ら選んだものだから。彼女の意志でもって取った行動だから。
 人の意志の自由になることなど、そうたくさんはない。生まれた場所、時代、ましてや親など、選びようがない。育つ環境も選択の余地はない。受験や勉強もそう。
 ただ、親元から少しずつ自立していくにしたがって、選べるものが少しだけ増える。それが、自分の生きる「場所」、住む「所」。ほんの少し、意志的に選べるようになってくる。

 千尋は、自分の意志ではない引越しの途中で、自分の意志ではない何ものかに導かれて、神々の憩う湯屋の世界に迷い込む。そして、そこで出会った新しい仲間の元に留まる道だってあったはずなのに、彼女は自分の意志で、別れを選ぶ。それは元いた世界に戻ることでもあるが、所詮、元いた世界とて、彼女にとって本当は未知の場所なのだ。それでも、千尋は数少ない自らの意志で、さよならの方を選ぶ。
 決断の、なんと切ないこと。それに伴う、後々の人生を引き受けることの、なんと重いこと。

 自分で決めたことと、それに伴う責任。人生を引き受けることの、大変さ。自分の意志が関わっている場合と、そうでない場合。いずれの場合も、はてしなく遠くまで続くように見える長い道の、ほんの途中だ。
 10歳の少女だけがそれを背負っているわけではない。いくつになっても、道は遥か先まで延びていて、歩いてきた道もまた、背後にずっと続いている。別れた人や、場所や、ものたちを残してきた、道。でも、それらと出会ったことは、確実に自分の中に生きている。

 出会いの一回性、有限性。ある状態での、ある自分だったからこそ、出会えた人や風景がある。ある経験を経たからこそ、出会えたということがある。そんな出会いと、必然的に伴う別れを受け止めて、私たちは限りあることの尊さを知る。限りある命、限りある関係、限りある時間。そして、限りあるからこそ、美しいものがあることを知る。

 この道は、私をいったいどこまで連れていくんだろう。あなたの道と、どこかで交わるだろうか。交わった時、それを全身で享受できるだろうか。

*   *   *

alas
illustration: copyright 2002 mirella musri
 子供の頃、大人になれば悩みはなくなり問題はすべて解決するものだと思っていた。オトナになった今、子供は悩みがなさそうで楽しそうだなんて、時々思う。
 いつだって、生きるのは結構大変なのに。
 大変で、やりきれないことも多いけど、それでも人生は続く。
 そんな時、空を見る。心の中で、青い空を見る。白い雲を思い描く。千尋が通ったトンネルの向こう側の、草原に吹き渡るそよ風を想う。生きてそこにある不思議。出会えたことの奇跡。限りあることの美しさ。
 すべて命あるものが、死を中に抱えつつ生に向かっている姿を想い、自分の内なる声に耳を澄ます。何かが聞こえてくるのを、願って。



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