私情つうしん 第23号 2002年3月発行
by 大鹿真希
ある冬の日、私は有楽町の交差点で立ちすくんだ。日曜の午後で、夕暮れの日ざしがビルを茜色に染め、街には休日の午後特有のけだるい雰囲気がただよっていた。目に飛び込んできたのはビルの壁に設置してある電光掲示板。「イスラエルがパレスチナに空爆」。
きたか。同時多発テロ以来、あの辺りは燻っていたので、こんなこともあるかと思っていたが。慌てて電車に乗っても、山手線がどこに向かっているのかさえも定かではなかった。
どうもあの辺りの話を聞くと私は動揺する。なんだかとても感情的になって、自分でも「おいおい」と手を焼くぐらい頭が混乱する。涙まで出ちゃって困ったもんだ。しかし、それは仕方ない。なぜなら、あの場所で私の人生の記憶は始まっているのだから。そして、あの場所は私の大切な友人の国でもある。
「三つ子の魂百まで」には惜しくも間に合わなかった3歳半からではあるが、1982年までの3年近くを住んでいたのは、レバノンという国である。中東に位置し、隣をシリア、イスラエルそして地中海に囲まれている国。2000年にレバノン南部のサイダでアジアカップが開催され、周りの人は日本がそこで優勝したことに喜んだ。しかし、私はレバノンでスポーツ大会が開かれるほど治安が良くなったことが嬉しくて仕方なかった。サイダはとても怖いところだと母は言う。
レバノンという国は、宗教の対立と同時に、イスラエルとパレスチナの争いを「代理内戦」させられている戦場でもある。私が住んでいたのは戦いが激しい時期で、手榴弾の爆音で夜中に起こされ、その凄さに泣く回数が日増しに増えていった。家の前で車が爆発して家中ガラスが粉々、カーテンはガラス片で引き裂かれた。流れ弾によって私の部屋のシャッターには穴がいくつも開いてしまった。夜中になると、それらが人の顔に見えて怯えていた。おかげさまで私は極度の怖がりである。
それでも私のかけがえのない幼稚園時代だ。キリスト教とイスラム教が混在する国なので、先生がアラビア語をノートに書くと「イスラム教のお休み」、英語を書くと「キリスト教のお休み」と大喜びをしていた。街の人には、道ですれ違う度に「ヤバーニ(日本人)」と気軽に声を掛けられ、可愛がってもらえる程、私はちょっとしたアイドルだった。(いい日々だったなあ。。。)すれ違う女の人のくるぶしに見え隠れするアンクレットに憧れ、幼稚園は誘拐防止の柵が空にまで張り巡らされていたけど、その鳥かごの中で友人たちと大いに遊び、パキスタン人の男の子に初恋をした。私が大好きだったイタリアンレストランの店員の笑顔も印象に残っている。彼は仕事後、オーダーをとるためのペンを散弾銃に替えて街を守っていた。
誰よりも好きだったのは、家にくるお手伝いさんのナジャーハ、20歳。優しくて元気で、彼女の柔らかく長い髪に憧れた。彼女が仕事を終えて帰る前までに、急いで学校から帰っていたが、時々ナジャーハが学校に迎えにきてくれると、柵のカギが開くのが待ち遠しく、抱き着くようにして帰った。私が自転車に乗るのを手伝ってもらったり、一緒にベットの上で跳ねてスプリングを壊して怒られたり、親が外出する時も一緒に留守番して人形遊びの相手をしてくれた。何しろ学校へ行く以外は危険で外に出してもらえなかったので、年の近い友達といえば、ナジャーハだったのである。
ある日、車で外出した時にナジャーハの家の辺りを通った。道らしきものはなく、ひたすら砂利道を進んだ。好奇心むき出しで寄ってくる子供をかき分けるようにして家の近くに辿り着いた。仕事を終えた後の彼女の生活は知らなかったので、どんな家に住んでいるのかも分からなかったのである。そこには、むき出しのブロックでできた小さな家があり、ブロックの間からはセメントがはみ出していた。所狭しと干してある洗濯物は、力なく風にゆれていた。他にも同じような家が立ち並んでいて、グレー色の街にはあきらめたムードがただよっていた。そのまま、無言で家に戻った。正直いって、幼い私には余りにもショッキングな光景だったのである。
後で聞いた話だが、彼女の兄のひとりは医者の学校に通っており、その他十何人の兄妹は稼いで兄の学費にあてていたらしい。優秀な人がいたら、その他の家族はその人を支えるために働く。銃をもって街に出る若者も多い。
私はその後「平和」な日本に帰国したが、日本語を自由に操れなかった私は、レバノンでよりも辛い経験をした。周りから特別視されるのが嫌で、レバノンにいたことは隠していたし、日本での生活に集中していたので、自分の記憶すらおぼろげになっていった。それでも、記憶より体が反応するのだ。ファミレスのラーメンを食べて、急にレバノンの日本食レストランのラーメンの味にそっくりだと気がつく。そのレストランの女性オーナーの顔は、わずかに覚えているだけなのに不思議なものだ。私は今でも友人との喧嘩ですら起こさないように努力しているし、ひとつの宗教に属すつもりもない。そして、レバノンやその周辺国のニュースを見ても感情が先行して、ナジャーハや一緒に遊んだ友達のことが心配になる。ニュースと、親から入るわずかな情報だけが頼りだが、今日も彼女たちが生きていてほしいと願っている。生きて、彼女たちなりに楽しく過ごしていてほしい。私の思う「幸せ」がすべての人の「幸せ」ではないことは分かっているが、せめて彼女たちが毎日平穏にくらしていけたらと思う。ブロックを、投げて戦うためではなく、もっと住みやすい家を建てるために使っていてほしい。
幸い私は、自分のために仕事を選択できる環境にいる。自分の気持ちを、英語も知らない人でも分かるようにとビジュアル関係の仕事に足をつっこみはじめたが、その世界は、びっくりする程「日本的」な世界であった。その世界には疑問だらけだし、体に合わないかもしれないけど、ニュースなどの媒体では計り知れない「戦い」というものの恐怖と、そこに住む人たちを知るという経験は、私しかできなかった貴重な経験だ。なんとかくぐりぬけるしかない。