私情つうしん 第23号 2002年3月発行
愛国主義と日本語に訳される言葉は、英語ではnationalismとpatriotismの二つが考えられる。
Nationという単語は国家、国民、あるいは民族と訳される。Nation Stateといえば国民国家だが、これはアメリカ独立革命やフランス革命など18世紀後半からの近代の概念だ。日本でいえば明治維新が近代国家の成立となる。フランスでも日本でもそうだが、それまでバラバラだった国内の各地方を一つの民族、一つの言語というnational identityを押しつけながら統一した。他の国家・国民とは異なる優位性をなんらかの形で打ち出すために、内部に対しては純粋であることを要求し、外部に対しては独自性を唱える。どこまでいっても排他的になる。
一方、patriotismは国家という行政の仕組みとは本来無関係だ。生まれ育った郷土、その気候や風景、またそこに住む人々への愛着がイメージされる。その美しさうるわしさすばらしさがどれだけのものであったとしても、ほかの土地も同じように、あるいはそれ以上にすばらしいものであることを妨げるものでは、本来ないだろう。
さてぼくは日本に帰ってきてからすでに30年近くなる。海外にいると日本の良さに憧れ、自分が日本人であることを過剰に意識して日本が大好きになることも経験してきた。一方で帰国してからは、この国への適応圧力の中で日本が嫌いになる経験もしている。実際、『私情つうしん』#21の「異邦人の中にこそ我が故郷」で書いたニューヨークでの解放感に比べて、東京の街で感じる閉塞感とストレスはいまだに大きい。ならばとっととこの国を出ていけばいいと言われるかもしれないが、出ていかない理由の中にはもちろんさまざまなしがらみなどもある。この国が好きであるにせよ嫌いであるにせよ、あるときに気がついたのは、二つの愛国主義の違いだ。
どうせ住んでいるのならば、少しでも居心地良く過ごしたい。そのために、この国やそこに住む人々に変わってほしいと思うところがあるならば、小さな声でも語っていきたい。変えられる手段があるのならば、できる範囲でなんとかしていきたい。そのためにこの国の文化が変わることが必要ならば、それもいいだろう。
そもそも文化というものは、これは『私情つうしん』#1の「『文化』は名詞か形容詞か」で書いたが、ダイナミックに変化し続けるものだと考えている。純粋な文化などというものは、純血な民族同様、nationalismの中で育まれた幻想に過ぎない。肌の色にさまざまなグラデーションがあるのと同様、文化だって本来個人個人で異なるものだ。ならば当然のことながら、「どの国の文化を選ぶ?」みたいな問いも成り立たないし、「この国の文化を否定するのか肯定するのか」というようなall or nothingの議論も成立しない。どうせなら、ニューヨークで感じたように雑多な文化や人々が混在する中で日本の良さもその他のものの良さも享受できるゆとりがほしい。
ぼくは郷土を愛する。でも、国家主義者にはなりたくない。自分の持っている良さを大事にしつつも、ほかの人の持っている良さも味わいたい。そのためには、今、住んでいるこの場所を愛するが故にこそ変えていきたい。
ある時、ぼくとほぼ同年代の帰国子女と酒を飲んでいた。ちょうど、この国の総選挙だかが終わったばかりであった。彼女が涙を流しながら嘆いたのは、この国の投票率の低さだった。この国をもっと居心地良くするために、それがどんな方向であれ参加する方法の一つが、投票。投票率の低さを嘆くことがこの国やその国民性を否定することにならないならば、変化の余地もあるはずだ。
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