logo 私情つうしん 第22号 2001年4月発行
kuri

『帰国子女』の片隅にいる、まだ見ぬ友へ

by Chi-chan

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<教育がわたしの現場>

 現在わたしは主に在日コリアンをめぐる日本の中の民族問題に取り組んでおり、一応職場ではその専門家のように扱われだしているのですが、純ジャパな同僚はいつもこう聞きます。 「何でそんなに精力的にこの問題に関わってやっているの?」
 それに答えるのには本当はかなり長い説明が必要なのですが、相手が判ろうと判るまいとに関わらず、最近はこう答えることにしています。
「それはわたし自身が『帰国子女』だからでしょう」 photo

 多くの場合、これは答えにはなっていないようです。というのも、多くの同僚は、「帰国子女」の何が問題で、何を葛藤し、何が在日をめぐる問題と関わるのかが実感的に判らないからなのです。アイデンティティ・クライシスなどという言葉にも思い当たらない、といった様子が、その表情から洩れなく読みとれます。こういうsituationの中で、わたしは教育を担うべき、多くの日本人教師を「覚醒」させる必要を感じ出しています。そして、わたしのような教師がひとりくらい教育の場にいて、何かを投げかけなければ、多くの場合、「異文化」を排除する方向ばかりが強調されて、自分の身近にある「異文化」にはまったく思い至らない生徒を量産するばかりなのではないか、という危惧を常に感じだしています。

 たとえば、ある日のこと、在日コリアンの生徒がプンプンと怒りながら、「先生、聞いて!!」とわたしのところに駆け込んできました。
「この前、人権学習あったやんか。それで、韓国人の話になってんけど、友だちが『韓国人て血青い、いう感じするもんな』って言うんやで」
  その純ジャパの「友人」は、くだんの生徒と小学校から一緒の学校に通いながらも、その生徒が在日コリアンであることはまったく知らないのです。そばに当事者がいるとも知らず、そんな話をしていたのです。わたしがこの生徒の訴えを聞いてその生徒と話をしたことは言うまでもありませんが、ここで言いたいことは、わたしが頑張ったんだ、ということではなく、純ジャパな人たちの無頓着さをどう見たらよいのか、ということなのです。

 在日コリアンの生徒たちと多く関わり、さまざまな立場の在日コリアンの人たちの話を聞くにつけ、「違う」ということから始めよう、という、在日コリアンや帰国子女の多くの人たちが実感的に思うことが、なかなか純ジャパな人々には実感的に判らない、ということがわたしたち「異」文化体験者にとっての最大の難関ではないのか、ということです。

 そして、教育という場に自分を置いているわたしは、この煩わしさと面と向かって対決することが求められるのです。それは、自分のためであり、また目の前にいる在日コリアン生徒のためであり、また多くの純ジャパから脱出しうる可能性を含む多くの日本人生徒・教師のためだと思うのです。

 「覚醒」したわたしのことばをこの人たちは一体どう聞くのか。
  そのひとつのキッカケは、生徒がくれました。

 一昨年前くらいに『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメが流行っていたのをご存じでしょうか。
 生徒はあのアニメが好きで、わたしの周りにたむろって来る生徒たちがその話題で盛り上がっていました。当初そのアニメについては無知だったので、いろいろと聞いている内に「帰国子女」が出てくるのだけれど、帰国子女ってどういうものかよく判らん、という話題になったように思います。
  それで、「実はわたし『帰国子女』やねんで」と28歳以来、人権学習や必要最小限な場所でしかまだ明言しておらず、あまり積極的に話したことのなかった「帰国子女」という、わたしのアイデンティティの一部について語ることになってしまいました。

 その時に、「あなたたちのイメージする帰国子女ってどんなの?」と聞くと、いろんな答えが出てきました。「頭良さそう」「金持ちそう」「アメリカとかから帰ってきた人」「女子(男には合わないイメージ)」「上品・エリート」「学力向上のために行く」「高貴な人そうな……」「たまにズカズカ歩いている人」「差別のにおい(帰国子女枠などを見て)」……もちろん、偏見だ、と思うようなことばもかなりあるのですが、とても素直なイメージだと思われませんか?純ジャパから見たとき、わたしたちの中のアイデンティティはこのように表現されるのです。

 わたしはそれぞれのイメージにまつわる誤解をひとつひとつ従妹やわたしの例から解いていく作業をしていきました。その生徒グループの中には在日コリアンの子もいました。一番熱心にわたしの話を聞いていてくれ、目をそらさずに聞いていました。そして、最後には当初純ジャパ的物見高さで話を聞いていた日本人生徒たちは、「違う目で日本を見られるっていいよね」「なんで『帰国子女』っていうのでいじめられるんか判らんわ」「先生、もっとそんな話いっぱいしたらいいやん」……などなど、肯定的に受け止めてくれ、「それぞれのいいところを知ろう」「みんな違う方が面白いよね」というわたしのメッセージを生徒なりの方法で広げる努力もしてくれました。

 その時、純ジャパは純ジャパで終わらず、必ず変わる可能性を持っているのだ、ただ「帰国子女」が身近にいるという事実に気付いていないだけなのだ、ということをこの生徒たちは教えてくれたような気がしました。 このことに力を得て、わたしは授業でも体験談を多くするようになり、40人全員は無理でも、ひとりかふたりでもいいからわたしのメッセージを受け止めてくれる子たちを増やそう、と思うようになりました。結果は今のところ、敢えて数値化すれば5勝1敗くらいの感じでしょうか。やはり高校生にもなると、いろいろと自分で判断できるようになるし、生活体験も増えてくるので、わたしの体当たり的な実感に敏感に反応してくれます。(カウンター・リアクションもなかなか素直で手厳しいですが)

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<はじめての講演>

 また、昨年の始めにわたしはひとつの「講演」を引き受ける決心をしました。これは、ある場で日本の国際化についての会合に出席した際に、「日本は鎖国をする、ということで世界に態度を表明する、ということもできる」という思い切ったことを提案する講師の発言に、それはアカンで、日本の中の異文化内包者たる在日コリアンやわたしのような帰国子女などを排除する方向に必ず行くに決まってるんやから、という旨の反論を申し述べたのがキッカケでした。その発言者自身が「いまわたしの企画している講座で帰国子女の人の話をやりたいと思っていたところなんです。ぜひぜひ話して下さい」と言われるので、じゃあ、やるかな、と思ったのでした。
 それがこの原稿を書くキッカケにもなった、国際理解関係の講座の講演だったのです。生徒は肯定的に受け止めてくれたが、さて大人たちはどうなんだろう、いっちょダメもとでやってみるか、ぐらいの感覚で講演を引き受けました。

 当日の受講者数は30〜40名ぐらいだったでしょうか。講演前に「帰国子女についてのイメージは?」という質問を2〜3名の受講者に聞いたのですが、ワン・ワード的な高校生の答え方に比べて、こちらの聴き手さんたちは「知り合いに『帰国子女』がいて……」という説明的な答えや「自己主張が激しく、『なぜ〜してはいけないの』という質問ばかりして対応に困っている」と比較的ずばりマイナス面を強調して答える人もいれば、人や帰国子女そのものに触れない答えをする人……高校生とは違っておおむね説明的で間接的で配慮に満ちた内容のようにわたしには受け止められました。

 その後、講演内容は主にこの連載の「覚醒」前の体験を中心に話しました。 わたしがもっとも興味があったのは、この話の後、聴衆はどんな反応をするのか、ということでした。講演を引き受ける際に「質疑応答の時間をぜひ取って下さい」とお願いしてあったのも、わたしの関心が「どうこの人たちはわたしの話を聞くのだろうか」ということにあったからです。
  質問の典型的なものをいくつか挙げてみます。
「帰国子女に対する排他性は日本独特の現象なのか、たとえばアメリカとかにはないのか」
「帰国子女に替わるような適当なことばは、考えておられると思うが特に英語で何かないのか」
「いじめに遭ったのは、帰国子女であるが故のいじめではなく、京都という地域の特性ではないのか」
「わたしの知り合いで、『日本のことは知らんでよい、どうせ一家移住して将来この子はカナダに住むんだから』とカナダ文化のみを教えて日本文化を一切教えない人がいるが、将来誰でも『帰国子女』の親の立場に立つかもしれない、という観点からすると、このやり方をどう思うか」
「自分は学校で教えていて、人権に関わる校務分掌にいるのだが、なかなか生徒たちは実態を知らないので、『共生』という認識が育ちにくい。せっかく判ったと思っても、家庭に帰るとまた違うことを入れる存在がいるので、少しも先に進めない。どういう風にしたらよいのか途方に暮れている。何かよいアドバイスでもないですか」

 わたしがこれにどう答えたかは次回のお楽しみ、ということにして、『私情つうしん』の読者のみなさんなら、これにどう答えられますか?

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