logo 私情つうしん 第21号 2000年5月発行

子供時代の「豊かさ」

by 佐伯幸弘

  朝食のおかずに、裏の畑に植えてあるトマトを取ってきて水で洗い、輪切りにして食べる。夕食のてんぷらは、やはり裏の畑で育てている茄子やピーマンを摘み、ニンジンを抜いて使う。
 そう聞くと何となく豊かな生活のような気がしませんか?
  これは私の子供時代の思い出です。

 私の家は農家だったのです。子供の頃、野菜は買うものではなく裏庭から取って来るものでした。野菜はスーパーで買うものとなった現代にあっては、朝夕の惣菜の材料を裏庭からひょいと持って来るのはたいへんな贅沢といえるでしょう。何といっても新鮮です。収穫してからスーパーに並ぶまで何日かかるのか、スーパーで買って冷蔵庫に何日寝ていることやら、それを思うと、食べる直前に収穫するのですから、新鮮も新鮮、まさに新鮮の固まりです。
  飽食の時代である現代においては、この新鮮さには高い価値があります。
  私は何と贅沢な子供時代を過ごしたことでしょう。

  ………。

 ところが、残念ながらこれは虚構です。事実ですが真実ではありません。私は、子供の頃、自分が豊かだったとか、自分の生活が贅沢だと思ったことはついぞなかったのです。

 裏の畑は豊饒で、実に良く野菜が成りました。成りすぎました。
  新鮮なトマトは確かにおいしい。朝露を帯びたトマトを取ってきて朝食時に食べるのはたいへんな贅沢です。ですが、いかに新鮮とはいえ、いかに贅沢とはいえ、朝、昼、晩、ついでにおやつまで、毎回トマトが出てきたら、おいしい、おいしいと食べていられるでしょうか? 秋には茄子が成ります。味噌汁の実に、漬物に、てんぷらに、いためものに、それこそ何もかも茄子づくし。これが何日も続いたらいいかげんいやになります。食べても食べても、収穫した茄子は減るどころか、一日たつとそれだけ増えていく。毎日どんどん増えていく。なんでこんなにいっぱい成るんだ、と罵りたくなるほどです。きゅうりしかり、白菜しかり、キャベツしかり。まあ、ジャガイモ、ニンジン、ごぼうは保存が利くのでまだましでしたが。
  しかも悪いことに、それだけ野菜が取れてしまうため、かえって野菜が食べられないという副作用まであります。私の両親は、野菜は買うものではないと固く信じていますので、畑に植えていない野菜は「絶対に」食べられません。アスパラガス、玉ねぎ、さつまいも、里芋、…。
  反対に、作っている野菜は毎日飽きるほど、いや、飽きてしまっても、食べさせられます。
  果たして、これが豊かな食生活といえるでしょうか。


 ここで、がらりと話を変えます。

 今、私はカリフォルニアにいます。会社の命令で転勤になったからです。妻と二人の娘たちは無邪気にも、新世界への好奇心に誘われて来てしまいました。一年ほどたち、今では、こちらに来る前の漠然とした期待はすでに打ち砕かれ、現実の過酷な日常生活に、家族は皆、大変な苦労をしています。言葉の問題から始まって、日米のシステムの不整合、ライフスタイルの違いから来る誤解。中でも子供たちの学校の問題は、ちょっと大袈裟ですが、筆舌に尽くせないほど大きなストレスです。(この辺の事情はすでに皆さんご存知ですから書きません。)

 来てしまったのならくよくよせずに楽しめばいい、と考えるのは、私のように人生を長く歩んだ大人の勝手です。私の子供たちは、無理矢理アメリカに連れて来られ、数年後には自動的に帰国子女というレッテルを貼られます。日本に帰った後で、「帰国子女にはなりたくなかった、勝手に連れていった親が悪い」と子供にいわれる可能性大です。

 私自身は、日本にいたときに、カリフォルニアに行ったら家族は困った状況になるかもしれない、とは思いました。その悪い予感は当たったのですが、何とかなるさ、という予想はみごとはずれました。事態は想像以上に深刻で、今なお解決法方が見つかっていません。

 でも、それでも、私は間違ったなどとは思っていません。これが人生というものです。もし、家族を連れて来ずに日本に置いてきたら、娘たちの帰国子女問題は回避できますが、「アメリカに行きたかったのになんで連れてってくれなかったの」と一生怨まれるかもしれません。結局、何をどうしても、反対の意見は常にありますし、反対の見方は必ず存在します。

 私が子供たちを連れて来た理由はただ一つです。子供が小さいうちは家族は一緒に暮らすものだ、という原則からです。そのために何か不都合が起こっても、そのときは家族全員で解決するのだ、と思ったからです。子供を帰国子女にしたくないから家族がバラバラに暮らすのがいいか、子供を帰国子女にしてまで家族一緒に暮らすのがいいか、私の答えは決まっています。その考えは、今でも変わっていません。

 ところで、子供には選択の余地がありません。生まれて来るとき親を選べません(芥川龍之介の『河童』のように、生まれて来る子供が親を選べたらおもしろいですね)。子供にとって家族との共同生活は強制です。気に入らないからといってよその家庭に入り込むことはできません。親は変えられません。子供はその親によって作られた環境の中で暮らすしかありません。


 ここで、始めの話に戻ります。

  私は子供時代になかなか良い経験をしたと思います。私の子供時代の経験は、他人にはできるはずもなく、私自身ですら二度と経験できません。つまり、たとえ今、子供のときと同じようなことをしてみても、子供時代に選択の余地なくさせられた経験と、今では自分で選んでする経験とは、意識の上で180度違います。

  私の子供時代の経験はただの一回きりで、しかも他人とは分かち合えない独特のものです。そしてそれは、私だけでなく、人間一人一人、誰でもそうだといえると思います。誰もが、自分だけの子供時代を持っているのです。そして、その経験は他人には絶対に体験できないユニークなものです。ですから、帰国子女になった経験も、帰国子女にならなかった経験も、ともに、その人にはユニークな経験です。 picture

  私は、野菜に埋もれた子供時代を今では豊かな生活だったと思っています。「豊か」というのは、野菜が豊富だった、という意味ではもちろんありません。「豊か」とは二度と得ることができない貴重な経験をしたという意味です。しかも、それは自分の意志で行ったのではありません。環境のせいでそうなってしまっただけです。それでも、いや、それが「豊かさ」だったのです。そして、誰もが、その人だけの「豊かさ」を持っているのだと思います。

  私は、今、その豊かさを娘たちに与えている、と信じています。



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