logo 私情つうしん 第21号 2000年5月発行

ペキンスカヤの中庭で  (19)

by 中津燎子

連載の前の回

 前回の、私の原稿を読んだ友人が、その内容について疑問がある、と言ってきた。

 ある12才の少女から「中津さんは何故、日本人と結婚したのですか?」ときかれた時、「昔々、とてもすばらしい人生のパートナーになりそうなアメリカ人と出あって、結婚しようとした時、もし、そうなったら私はきっと日本のことを忘れてしまい、母のこともいつしか消えてしまうだろうとはっきり予測出来た。日本を忘れても母を忘れたくなかったのでその結婚はあきらめた。そして日本人の夫と結婚し今は日本に住んで幸せに母のことを思い出しているのだ」と私は答えたのである。友人の疑問は「そんなにたやすく日本のことを忘れたり、母親の記憶が消えたりするものだろうか?」と言うことであった。人間の記憶なんて光と影が無限に織り重ねられた不確実なもので、その時々の環境と状況によって、血がにじむ程に鋭くきざみこまれたり、ぼんやりとうすれかけたりする。特に幼年期から思春期にかけてそうだ。

 私の日本の記憶は否応なく不適応からはじまり、とまどいと怒り、不安と恐怖、そして最後には居直り上手な一匹狼精神に変化して行った。どんなに努力しても異質部分を変えられず、かくすことも出来ないとわかった時、そしてそれを受けいれる日本の風土ではない、と肝に銘じた時、私は受けいれてくれと望み、ねがうことをすっぱりとやめた。

 そう言う「日本」の状況は心安らぐ故国の思い出として私の心の中に何ひとつ、残らなかった。今でも時々、苦笑と共に思い出す夢がある。アメリカに住んでいた頃、年に1、2回、日本へもどった夢をみるのはけっこうなのだが、それからアメリカへひき返すための船便がトラブルだったり、チケットが手に入らなかったりして、あせりにあせって冷汗をかいて眼がさめる夢なのだ。さめたあと、当時住んでいたシカゴのサブウェイの響きを耳にして、ほっと安心するのが常だった。自分でも「よくまァ ここまで日本をこわがっているものだ」と感心していた。と言ってもアメリカ生活が楽チンで花園にいるようにフワフワしていたのではない。当時の凄まじい人種差別に直面していて、日夜ケンカばかりしていたのだが、私が私であることに誰も文句をつけない社会が心底ありがたくて、毎日私らしく充実してケンカをしまくっていたのである。日本では私であることよりも「何々らしくある」ことの方が上位だったから、生きている気がしなかった。母一人が唯一、私を認めてくれていたのでその記憶を失いたくなかったのはたしかだが、アメリカ社会の「個人の自由」にはまりこんでしまうと、私が私であることなんて太陽が東にのぼる位あたりまえで どうということもない。そしていつしか母の姿はうすれてゆく。

 私の友人のように、生まれた国に育ち、大人になってから外国へ行った人たちの「母国」についてのイメージは常に 最初から日本人として抱えこまれているものであって、「よそもの」に対して牙をむいたり、そっぽむいたりする姿はない。だからこそ、心の底の底に「菜の花畠に入日うすれ……」とうたわれる、のどかで美しいふるさとのイメージがあざやかで、消えることはないのである。


プロフィール
1925年福岡市に出生。3才で、日本領事館で通訳として勤務する父に連れられて旧ソ連領のウラヂオストック市に渡る。1936年、日本に帰国。戦後、1956年渡米。結婚し2児を連れて1965年帰国。以降、英語塾を開き、東京・大阪・九州で異文化対応と発音訓練を教えて現在に至る。