logo 私情つうしん 第21号 2000年5月発行
kuri

『帰国子女』の片隅にいる、まだ見ぬ友へ

by Chi-chan

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<転機〜在日コリアンとの出会い〜>

 本当の転機が訪れたのは、非常勤講師を始めてしばらく経った頃、年齢にすると23か24歳の頃でした。8月の夏期休業中、「お休みだ、お休みだ」と遊び回っていたわたしのところに、「実は某先生が倒れられて、その代わりを頼みたいんだけど……ついては、現状の7時間を18時間持ってもらう上に、分掌付きということで……」という電話がかかってきたのでした。ううう、分掌付きかあ。どうしよう。と、正直悩んだものの、収入がぐんと増えるという魔力に勝てず、その日か次の日のうちに「やります」という返事をしていました。

 その分掌が、人権に関わる校務分掌で、「早速だけど、民族舞踊を文化祭でやるから、その担当になってくれ」と部長から言われました。「民族舞踊」???

「民族舞踊」と聞いてわたしが連想したのは、なんとリンボーダンス。ううう、何なん、それ、と思い、聞かなければ仕事もできないので、「民族舞踊って何ですか?」と恥をしのんで尋ねました。
「民族舞踊って言うたら、在日韓国・朝鮮人の踊りのことや」
とのお答え。ううう、在日って何なんや。わからん〜。

 最初はこんなわたしでした。それから在日コリアンに関わるいろいろな機会に同席することになり、頃はちょうどソウル・オリンピック前のことで、コリア半島の北と南の関係が微妙な時でした。この時、わたしは自分の中のニホンジンと戦いだしていたのでした。 何よりも、誤解を恐れずに白状すると、「何か面倒なことに首を突っ込んでるんちゃうのん」というのが、正直な気持ちでした。自分がいかに民族的偏見を持っているかを思い知らされた時でした。自分が「帰国子女」だとか、そういうことは何もこの時意味を持たなかったのです。わたしはニホンジンだ!あんなに嫌がっていたニホンジンがわたしの中にあった!!なぜこの人たちが日本にいるのか、わたしは知らない。確かなのはわたしはコリアンじゃない、ってこと。コリアン文化など全く知らない。そんじょそこらのニホンジンとわたしはどこが違うっていうんだ??

 内面でどんなに焦ったところで、仕事として「民族舞踊」を成功させるのが、わたしに課せられた使命でした。最初は本当に使命感だけで取り組んでおり、舞踊の先生から、「先生も一緒に踊られませんか」と言われても、「いえ、わたしは結構です(わたしは日本人だから、コリアン舞踊は踊れない!!)」と固辞していました。この時がわたしにとって、自分の中の異文化と日本人の部分が不可分のものであることを意識する本当の意味でのキッカケでした。今まで避けてきた「自分」と向き合わざるを得なくなってしまったのでした。

 ただ、この文化祭の取り組みの中で、たったひとつわたしが「あれ?」と気付いたことが、以後のわたしの「覚醒」に繋がっていったのでした。

 最初は舞踊に取り組む在日コリアンの生徒たちをわたしは「在日」というひとくくりのものとして見ていたのです。これは、日本人がわたしのような存在に「帰国子女」というレッテルを貼っているのと似通ってはいないのか。そのことに気付かせてくれたのは、ひとりの「在日」の生徒の呟きでした。

「何で韓国人やからって踊らなアカンねんな、先生。わたしは日本で育って来てんねんから、どこまでが日本のもんで、何が韓国人かなんて考えたことないモン」

 このことばが「あ、そうや。わたしも一緒や」と気付かせてくれたのです。わたしのどこまでが「アメリカ」で、どこまでが「日本」なんやろ。この子の言うこと、わたし判る気がする。何で?この子は在日コリアンで、わたしは日本人やのに、この親近感は何?

  この疑問に答えの出ないまま、舞踊そのものは一応の成功を収め、日本人生徒が踊った在日コリアン生徒に駆け寄り、「綺麗やった!!素敵やったよ!!」と声をかける姿、その声にパアっと明るい表情に変わった在日コリアン生徒の姿を目の当たりにしながら、「これって何か知らんけど、ええ感じや」とわたしも胸が熱くなったのでした。

  わたしはこの時の体験を、未整理のままではありながら、肯定的に異文化が受け入れられたという興奮をもちつつ、常連になったお店で知り合った友人に酒の席で語るようになっていました。わたしが「帰国子女」だということも、自然と話しました。今から思うと、その人はニコニコとわたしの話を聞いて、常に肯定的にわたしに接してくれていました。いろいろ話している内に、後にその人自身が在日コリアンであることを知ることになりました。

 ある日のこと、ビールで乾杯を続けながら、2人ともすっかり酔いが回ってきた頃、その人はわたしに「外国人登録証」の手帳を見せてくれながら、「ねえ、先生。先生は英語の先生でしょう?ここに書いてあるalienということばをどう思わはります?やっぱり失礼なことばなんですか」と尋ねたのでした。

 わたしは後頭部をガーンと殴られたような気になりました。こんな身近なところに在日コリアンが!!なぜ今まで気がつかなかったんだろう!!わたしは「日本人」の「英語教師」として、この人にきちんと答えなければならない!!内心焦りつつ、「そうですね。排他的な感じがすることばですね。」と答えるのがやっとでした。こんなに不充分なことしか言えなかったわたしに、その人はこう言ってくれました。
「何だか先生には何でも話せる気がするんです」

 そのひとことに、日本に帰ってきて「初めて」「本当に」救われた気がしました。ああ、ここにわたしをあるがままに受け止めてくれる存在がいるんだ−−自分の中の「アメリカ」を肯定してもいいんだ、とほんのちょっぴりでしたが、心が和らぎ始めていました。緊張の中で「アメリカを隠さなくては」という想いからわたしを解放してくれたのは、どちらも在日コリアンでした。 この2つの出会いがわたしのレゾン・デートルそのものでした。

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<「帰国子女」としての自立>

 そして、わたしが28歳になった年にわたしが自分の中の「帰国子女」を完全に引き受けることになる、新たな出会いがありました。  わたしは25歳の時点で正規採用となり、本当の意味で教員の道を歩き始めていました。新たな在日コリアン生徒との出会いもあり、自分を一番発揮できる場としては在日コリアンに関わる仕事しかない、と思い始めていました。

 そんなある日、教職員の某研究集会に出席することにしました。理由は、「在日問題」の分科会がある、という理由でした。その同じ分科会の中で「帰国子女」の問題についても語られることになってはいたのですが、わたしはあくまで「わたしが聞きたいのは、在日の方であって、帰国子女はおまけだ」と頑なに自分に言い聞かせながら、その分科会に参加していました。たぶんここまで頑なに線引きをしていたのは、どうせ「帰国子女」なんて厄介者だと思われているに違いないんだ、と思いこんでいたからでした。 photo

 その分科会での発表者のレポートの内容はまったく想像していたものとは違っていました。てっきり堅い内容のものだと思っていたのですが、最初にその発表者は「わたし自身、ある意味で中学時代は朝鮮人を差別する立場に立っていたと思います」と語り出しました。在日コリアンとは共感できるが、教師の多くは純ジャパだし、純ジャパにどうせろくな人はいない、と勝手に思いこんでいたわたしは、この発言にショックを受けました。

 自分の「日本」度をこの人は自覚している!!

 そんなニホンジンに会ったのはこの時が初めてのような気がしました。少なくともわたしの回りでそんなことを明言する人はいませんでした。なのに、この人は明言した!!しかもこんなに多くの教師たちの前で!!

 この発表者の言うことは信じられるぞ、と確信してわたしは一言一句洩らさぬように聞き耳を立てました。在日コリアンと日本人社会を隔てる壁が就職差別をなくす進路保障にあることを実例を挙げつつ、判りやすく話した後、その人は言いました。

「ご飯を食べるとき、朝鮮・韓国の方では床に座って女の人でも片膝を立てる、という習慣があります。これを日本でやると、『何だ、行儀の悪い』ということになるのですが、これは文化の差であり、その本人にとっては、ごく自然なことで、悪いことでもなんでも無いわけです。わたしたち日本人教師は、ついつい、『みんな同じ』という観点で生徒を見てしまいがちですが、国籍や障害などを『個性』として捕え、すべての人間はひとりひとりが『違う』という出発点からスタートすべきなのではないか、と思っています」

話のしめくくりをこのように話して、その発表者は報告を終わりました。立て膝のことはわたしが小学校時代に油引きの床に座ったことを非難した担任の顔を思い出させました。そして「違う」というスタートラインに立つべきだ、という言葉にわたしは心から頷きました。そして、「日本人にもなかなかなヤツがいるじゃないか」と嬉しくなりました。  

しかし、物事はそう簡単には運ばないのが世の常、質疑応答の際に、次のような質問が出ました。

「わたしは今中国残留孤児の帰国子女や在日韓国・朝鮮人の生徒を指導する立場にあるのだが、なかなか指導に乗ってくれなくて困っている。どうしたらよいのだろうか」

アホか!!今、ちゃんと言うたはったやろうが、てめー、何聞いとったんじゃ!!と思った瞬間、わたしは手を挙げて「今の質問にひとこと言わせて欲しいのですが−−」と司会者に訴えていました。自分でも予測していなかった自分の行動にとまどいました。でも、もう立ち上がって語りだしていました。自分で自分が制御できませんでした。

「わたしは『帰国子女』ということばができる以前からの『帰国子女』でした。日本では、いつも、どうしたら日本人らしいか、ということばかり考えていました。小学校ではアメリカから帰ってきたというだけで、いじめられました。いじめられるのが嫌で中学から私学へ逃げました。そんな思いをしながら、ちっとも自分の中のアメリカをいいものだと感じたことはありませんでした。でも、今の発表を聞いていて嬉しく思いました。わたしも、ひとりひとりの生徒が『違う』というところから出発することが何よりも必要だし、その生徒の持っている文化を理解することが必要だと思います。」

 確かこんな風なことを、もっとまとまりなく話しました。そして、不覚にも「帰国子女」と自分で言うときに、声が震え、涙が止まらなくなって絶句してしまいました。その姿を見て分科会の後、「その話を職場なんかでしはったことありますか。しはったらいいのに」と本当に肯定的に言ってくださった先生もおられましたが、その時のわたしは不覚にも泣いてしまった自分に腹を立て、「帰国子女」であることを明言したことを後悔していたため、その言葉も心に届いていませんでした。

 しかし、この時、発表者がわたしの名前を密かにメモし、「絶対また連絡を取ろう」と思ってくれていたこと、そしてわたしも「この発表者にうちの学校に来て話をしてもらおう」と思っていたことがキッカケとなり、数ヶ月後にまた会う機会を作ることができたのです。その発表者は、「あなたの発言と涙がわたしに力を与えてくれた」「理論だけで話していて自信のなかったところを、あなたの実体験の話が強めてくれた」と、心から集会での出会いを喜んでくれていたことをわたしに教えてくれました。

 余談ながら、この後まもなくこの発表者が、「帰国子女」をひっくるめて「わたし」という人間を受け止めてくれている、生まれも育ちも日本であるところの、わたしの現夫となったことを添えておきます。

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