私情つうしん 第20号 2000年3月発行
前回からのつづきで、小学生からの質問、第(2)からはじめよう。
「中津さんは、何故 日本人と結婚したのですか?」 小学5年生の小柄な少女が目をみはって、そうきいた時、私は正直言ってすぐには答えがみつからず、暫く天井をみあげて考えこんだ。
今までにもこういう種類の質問をうけたことは幾度もあった。たとえば「何故 アメリカ人と結婚しなかったのですか?」 この質問が数としては最も多く、答えが最もカンタンだった。「人種差別があったから」と答えるとそれで終り。しかし よく考えてみると日本人から「何故 日本人と結婚したのか?」ときかれたことはほとんど記憶にない。遠まわしとほのめかし話法できいた人はいたかもしれなかったが、私にとっては遠まわし話法なんて「フン!」の一息でふきとぶケムリみたいなもので、第一、何国人と結婚しようとよけいなお世話ではないか。しかし、今回の少女の質問はあまりに純真で、「何故?」と不思議そうにきらきらする眼をみた時、私は心の底から正直に答えたいと思った。
私が結果として日本人と結婚し、日本に帰国したきっかけは、せんじつめれば、1950年代末のある日、シカゴ郊外の小さな町の古く大きな家を訪問した事からはじまった。
そこは当時知りあったばかりのアメリカ青年の両親の住む家で、築100年はたつと言う古い赤れんが作りの大きな家だった。青年と言うには、36才のエディは少々ふけていたが、心理学者として州政府で仕事をしていた彼はまじめで温厚な性格でしかもピアノがうまく、母親のバイオリンとよく合奏して私の耳をたのしませてくれた。彼は北欧系の移民の4代目で曾祖父の代から牧師、教師、新聞記者などの仕事を持つ家族が多く、アメリカの堅実を絵に描いたような、典型的な中流家庭の出身だった。古く大きな家の、広い居間にすわって、にぎやかな家族の談笑の声や音楽をききながら、深いグリーンの壁紙の花もようを眺めているのが私の幸せだったから半年後にエディから結婚を申込まれた時もそれ程意外な事ではなかった。「即答はしなくていいからゆっくり考えて……」と言うエディの言葉通り、2カ月はゆったりかまえていたのだが、そのうち私は2つのことに気がついて愕然となった。
第一は、私とエディの結婚はほぼまちがいなくうまくゆき、トラブルもなくて一組のカップルとしてはよい人生を送るであろうと言う確信だった。今でもそう思っている。
だが、第二の点は、そうしてうまく行く筈の結婚の過程で、私の中の日本の記憶が次第に姿を失い、故郷の小さな山のふもとの我家も、川の流れも、最も失いたくない母の姿や思い出まで消えてゆくことはほぼまちがいなかった。そしてそれを私自身、とめる事が出来ない事もわかっていた。エディの家の姿や庭の木々の色、壁紙の色、バターの匂い、そういうすべてが私のロシアでの幼年時代と直結していて、その中間にあったはずの日本の姿はもうカタチもおぼろな淡い影となっていた。その中で唯一つ、私の心の中に残ったのは明治生まれの母親の記憶であった。母だけが、ロシアと日本の風土を越えてくっきりとそこにいた。将来この母の姿が心の中で次第にうすれてゆくことがあるだろうか、否か、を必死で考えた。どう考えてもエディとの人生ではそうならざるを得ないのではないか。そう思った時、私はエディより母をえらんだ。
それから1年後に現在の夫と出あい、結婚して40年近い月日がすぎた。今は夫婦でお互いの母親の思い出を遠慮なく語りあいながら平凡な日常をすごしている。母国、と言う言葉と、母がしっかり結びついたおかげで私は今日本にいる。11才の少女は、わかってくれただろうか?