私情つうしん 第20号 2000年3月発行
by 古家 淳
道を歩いていて時ならぬ車の大渋滞に出会った。なにごとかと思いながら歩いていくと車列の先頭は踏切で、道を遮ったまま列車が停まっている。貨物列車の先頭まで行って機関車の中を見ると、運転手がお弁当をつかいながら近所の人たちとのんびり世間話をしていた。
テレビを見る。お昼ごろまでは時間通りに放送されているが、夕方になり、夜になると番組の開始が遅れてくる。たぶん、コマーシャルの時間が計算に入っていないのだ。それが蓄積されて深夜の番組などは30分も遅れて始まる。正確な時計を内蔵している日本製のビデオデッキに留守録を設定してもムダである。
当時の大統領夫人の肝いりでオリンピックに間に合わせるべく作り始めた超高層ホテルが、30数年たった今でもまだ完成していない。まるで魚の食べかすのような姿を風雨にさらしている。
この国の大統領は任期6年。20世紀初頭に30年も独裁した大統領がいて、革命によって倒された。その時から再選禁止になった。だが最近でもすべての大統領が、就任時には「腐敗一掃」を掲げて当選し、町の木っ端役人まで顔が入れ替わる。任期前半は社会の潤滑油が足りなくて経済が停滞するが、後半になると元の黙阿弥。袖の下の金融緩和で好況を迎える。
この国には国会議事堂がない。建てようという計画で作り始めたら、途中で誰かが「レンガを食べてしまった」と言われている。東京の国会議事堂を想像してもらうと、あの真ん中の部分だけがあって、しかもその下をパリの凱旋門のように車が通過できるようにしてあるモノを想像してくれればいい。それが国会議事堂改メ革命記念塔の姿である。
すべて、ほぼ事実に等しい話である。誇張はない。少なくとも、1970年頃にはあたりまえの話であった。どこの国かを書くと、ヘタをすると入国禁止になる。わが愛する第二の故郷に入れなくなったらイヤだ。ラテンアメリカの某国だとだけ、言っておこう。
その国では金曜日は無礼講である。この日ばかりはいくら夜中に騒いでも近所からクレームをつけられることはない。町の中心部にある広場の1つには楽団がたくさん集まっているので、そこから1隊を雇ってロミオとジュリエットよろしく恋人の窓の下に連れてくる。ノドに自信があれば自ら歌ってもよし。楽団に歌わせてもよし。そうして恋を語る。これぞ正調セレナーデである。
マチズモという言葉がある。英語に取り入れられてシュワちゃんあるいはロッキーのような筋肉マンの意味になってしまったが、もともとはそれだけではない。騎士道精神に満ち、義侠心も豊かな気っぷのいい男前を示す。清水の次郎長一家のようなものである(森の石松あたりがもっともマッチョかもしれない)。道を歩いて女性を見かければ、必ず声をかける。数十メートル離れた道の向こう側から、指笛を吹く。
そんなラテン気質が、どこから来たのだろうかと考えた。きっかけになったのは、エジプトに住んだことのある帰国子女の一言である。「アラブもラテンよぉ! 結婚式なんかあると、道を通りかかった人もみんな招き寄せて朝までノリノリのパーティだもん」。アラブの人も時間を守らないことには定評があるらしい。というより、たとえ約束があったとしても家を出る前に訪ねてきた人があればそちらを優先するのが礼儀だとも聞いたことがある。ラテンといえば大元はイタリアである。地中海文明圏と言ってもいいかもしれない。スペインは長い間イスラム圏であった。ならばアラブ/イスラムがラテンの起源であっても不思議はない。
ところが今度は韓国に詳しい友人から、「韓国もラテンよ」と聞いて、さて? と思った。声が大きい。感情の起伏が激しい。勤勉なようで、どこか呑気。人生を楽しむすべを知っていることにはおおかたの日本人をかなり上回っているらしい。
よぉく考えてみたら、日本も昔はラテンだったのかもしれない。とくに江戸。宵越しの金は持たない粋。祭りの熱狂。歌舞伎衣装のド派手。ええじゃないかのおかげまいり。落語を聞くまでもない。
いよいよ暴論を吐く。実はすべての民族、すべての文化が根はラテンなのではないか? その発想の新鮮さにいつも敬服させてくれる畏友は「ラテンって、『人間』が最大の娯楽になっているんじゃない?」とまたも名言をくれた。テレビよりも、ラジオよりも、映画よりも何よりも人に会うことが最大のエンターテインメント。ならば、映画もラジオもたかだか100年の歴史だ。すべての文化で、かつては「人が最大のエンターテインメント」であったはず。
そこで合点がいった。「近代以前の人間はすべてラテン的であった」と断言してしまおう。諸悪の根元はマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にあった。いや、別にウェーバー本人のせいではない。産業革命と宗教革命なのだ。
まずは時間という概念を考えてみよう。時計の普及により、時間は肉体(=自然)から外在化された。それまでは腹時計、もしくは観天望気によって時の流れを知っていたのに、すべての人に一斉に1時間、1分、1秒単位で同じ時間を強制するようになった。それ以前は「じゃ、明日の夜ね」でよかったのが、「3日後の午後7時10分に」となった。人間関係が工業社会に適応させられたのだ。
いや、まったく。一度時計を外して待ち合わせをしてみたら、よくわかる。どんなに気分が豊かに楽になることか。野の花を愛でる余裕が生まれることか。今来るか、もう来るかと心をときめかせているときに時計の針を見てはいけない。相手の面影を群衆の中に探しているのが正しい待ち方である。まして恋愛に時刻など関係ない。一緒に愛を語っていれば、時なんてものは止めたいだけである。
近代化が徹底した国ほど、非ラテン的だ。ならばラテン的とは前近代的ということか? 否。これはむしろ近代の超克という課題を越えた文明の未来、ポストモダンの具現化に他ならない。人間と自然の復活を示しているのだ。未来はラテンの中にある。そして、この暴論を受け入れられるあなたはポストモダンをリードするラテン人間なのだ。
筆者のホームページへ