logo 私情つうしん 第20号 2000年3月発行
kuri

『帰国子女』の片隅にいる、まだ見ぬ友へ

by Chi-chan

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<心のふるさと「アメリカ」>

 客観的に今までの自分を振り返ってみると、「帰国子女」であることに向き合う機会はいくらでもあった筈でした。23歳を待たなくても、もう少し早く「覚醒」できていたかもしれない、と「覚醒」した今ならばこそ思うのであって、論理的に物事を捕らえるわたしのpartnerの言を借りれば、「覚醒」前のわたしの逡巡は、今のわたしになるための「必然」の時期だったのでしょう。

 「覚醒」へのステップは、12歳の時に始まっていたといえます。12歳の時、某体育振興のプログラムで、カナダ・アメリカ2週間の旅の企画があり、参加対象は小・中学生でした。どういうキッカケで親が参加を勧めたのかは忘れましたが、「行ってきたら」ということになり、「帰国」後初めてニホンからまた海外へ出ました。

 カナダは初めて訪れる国なのに、どこか懐かしく感じられ、その理由はすぐに明確にわたしの中で形を取りました。・・・それは、サンドイッチであり、ジャムをまぶしたピラフであり、マクドナルドのケチャップとマスタードの容器であり、Jack-in-the-boxの人形であったり、と、記憶の断片の中に埋もれていた様々な物体でした。

 ニホンのサンドイッチは、食パンとかいう面妖なパンで作られているため、わたしが幼児期にロスで常食していたパンとは異質のものでした。サンドイッチの中のピクルスの味もまったく違うのです。どこがどう違うか、と言われても説明できないのですが、おそらく原料のキュウリの味が違うのではないのでしょうか。ニホンのキュウリはピクルスには向いていないのだと思います(誰かこの謎を解ける方、ぜひ教えてください。)

 ジャム味のピラフにも、アメリカ風のサンドイッチにも、純ジャパな小・中学生たちは、「こんなもん食べられな〜い」とカフェテリアで日本語で叫んでいましたが、わたしは「そうだね。でも取っちゃったから食べるよ」と内心では「おお、この味この味」と懐かしさに嬉し泣きしそうになりながら、「食べられないんだったら食べてあげようか」と残している子の分までパクパクと食べてしまっていました。

 買い物でバンクーバーのデパートに行った帰り、添乗員さんと行ったマクドナルドには、ニホンでは当時決して置いていなかったマスタードとケチャップの懐かしい容器に出会い、「ニホンではどうしてこの容器が置いていないんでしょうね」と添乗員さんに尋ねながら、「そうそう、これこれ。正しいマクドナルドはこうでなくっちゃ」と思ったり。 ・・・7年経って踏んだ「心のふるさと」の隣国で、すでにわたしは自分の中のアメリカを否定しなくなっている自分に出会っていました。

 そのうえ、カナダに1週間、ロスに足かけ2日、サンフランシスコ、ハワイを巡ってニホンに戻る、という日程の中、母親が当時在米中の知り合いにあらかじめ連絡を取ってくれ、住んでいた場所に連れていってもらう算段をしてくれていました。ロスに着いたらホテルから電話するんやで、と母に番号を教えてもらったメモをしっかり握りしめ、久しぶりに使う英語と「ふるさと」に帰ってきたという緊張でダイヤルする手も震えていました。 photo

 ホテルに迎えに来てもらい、「どこに行きたい?」と確認され、わたしは躊躇なく、ロス時代に通っていたPreschoolと近所のSupermarketと住居にしていたアパートに連れていってもらいました。

 7年ぶりに見る景色は夜景だったため、違いがよく判らないところもありましたが、Preschoolは美容院になってしまっていて、色がgreenからlight orangeに塗り替えられていたものの、建物自体は面影が残っていました。「よりによって美容院かあ」と落胆しながら、家の近くに来ると、「あ!あそこはよく遊んだ場所だ!」「あ!あのpalmtree!!」と次第に記憶が蘇り、ついに滞在当時の家の前までたどり着きました。

 案内役のおじさんが、「あそこの部屋だよね」と正面に見えるドアを指さしましたが、「ううん、違うよ。わたしの家はその右のドア。あそこは大家さんのお家だよ」と正確な位置を教えるまでにわたしの記憶は鮮明でした。「それでね、2階のladyのことをMiss Poppyって呼んでたんだよ。だってね、遊びに行った時に頭にpoppyのお花のついたお人形をくれたんだもの」と興奮して話し続けました。「中には入れないの?」と聞くと、「今は違う人が住んでいるからね」とおじさんは答え、わたしたちは外から眺めるだけでした。「ドアを入るとね、すぐに広いlivingがあってね、その奥がkitchenなんだ。kitchenの隣がお母さんとお父さんとわたしのbedroomで、その手前がトイレなんだよ」と間取りを説明しつつ、わたしはずっとわたしの家だった建物を暗闇の中で眺めていました。

 路上に止まってかなり長い間そうやってわたしの話に付き合ってくださったご夫妻は、わたしが沈黙した瞬間に「もういいかな。他に行きたいところがある?」と聞いてくださったのでした。わたしは「ううん。もうホテルに帰る」と答えました。住んでいた家以上に行きたい所なんてなかったのです。もし許されるのなら、わたしはその中へ入っていって、「ただいまー!!!」と部屋の中で叫んでいたんじゃないかと思います。心引き裂かれてニホンに行ったものの、自分の中の何かがそこに根ざしたものであることを確認してわたしはニホンに戻りました。

 母は、興奮したわたしの様子を友人から聞かされ、まだわたしがアメリカの心を持っていることには気付いてくれていたようでした。ただ、そのことをどう受け止めていたのか・・・。彼女も「帰国」直後、わたしの英語力が下がらぬよう、英会話学校へ行かせたり、しかしながら低レベルすぎて英語力維持にはあまり効果がないと知ると、たまたま近所にあったInternational Schoolへ編入できないか、とわたしを連れて交渉に行ったりしていましたので、将来役に立つだろう道具としての「英語」にこだわったものの、わたしの中の心象風景にどれほど気付いていたのか、と、疑問に思います。大喧嘩したあと音信不通になっている今となっては、そのことを確かめる術もありませんが。

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<従妹弟も「帰国子女」>

 「覚醒」へのステップその2は、従妹たちの「帰国」でした。わたしの従妹弟たちとわたしの兄弟を含めると、同世代の総勢8人のうち、4人までが「帰国子女」という内訳で、特にドイツから帰ってきた従妹弟たちと話すのが、自分の中の「非」ニホンジンを意識する機会でした。特に従妹とは、同じ女の子同士ということもあって、祖父母の家で出会った時などは、子どもたちだけでbedroom(わざわざ祖母が「外国にいた子らにはこれがよかろう」と2段ベッドを買ってくれていた)を占拠し、「ねえねえ、Chi-chanはこんなことあった?」「うんうん。それってね・・・」と色々と情報交換し、「そうかあ、やっぱりChi-chanもそう思う?」と盛り上がり、それを純ジャパなわたしの弟や(年齢順に仮にわたしが1号、2号が従妹とすると)帰国子女3号の従弟が聞いていて「ふーん」「わからん」「いやいや、それはそう」などと相槌を打つ・・・これがお互いの「帰国子女」確認作業になっているなどとは思わないで、寄れば飽きずに同じ作業を繰り返していたのでした。 photo

<私はやっぱり「ニホンジン」?>

 「覚醒」へのステップその3は、2度目の海外体験。とはいえ、これも父母海外での仕事に「来るか」と誘われてついていっただけの話ですが、頃は自分の意志もはっきりしている20歳のみぎりでした。まだ共産圏にあったハンガリーへの1週間の旅も、ニホンから離れて伸び伸びとできる自分を確認した旅でした。父母が仕事で忙しい間、わたしはニホンジンとしてただひとりの、social tourのmemberとして、怪しげな英語を駆使し、いろんな国から来たオジサマ、オバサマたちに囲まれて観光にいそしみました。傑作だったのが、"Mysterious Stranger"というタイトルのオペラを見に行った晩のことでした。

 ヒロインはアメリカの娼婦、そこへ本当に怪しげな格好のニホンジン男性が迷い込んできます。頭髪は歌舞伎役者の悪役のような髷、顔にはこれも歌舞伎風の隈取り、下着は少林寺拳法でつけるような胸当て、その上にはおっているのはどう見てもインドのサリー風の一枚布・・・それをマジャール語で超真面目にオペラするもんですから、わたしたち親子は見た途端こけそうになって、笑わずに見続けるのが苦しかったくらいです。

 終演後、予想通り、わたしの回りにはsocial memberで親しくなったオジサマ、オバサマの山。おめかししてkimonoなんか着てたものですから、その他の人もわらわらと集まってきて、「終わったら絶対あなたの話を聞きたいと思ってたんだ」「どうだった?」と口々に聞かれ(もちろんall in English。ヒアリングは苦にならないから、意味は分かるのだ、)わたしも聞かれるだろうな、と思っていたので、あらかじめ頭の中で英作文してあった答えをスラスラと答えました。

 "Ummmm....That was very strange to me as a Japanese. The reason why I think so is the costume. The Japanese man in that opera wears reeeeeally strange costume. The hair was strange ... that is a special hair for a Kabuki performer, and the cloth he was wearing is very much Indian-like, and ... what was that? The patch-like square thing on his breast? That looks like Chinese armour or something."

 この答えにいたく皆さん満足され、キャハキャハと笑いながら歓談したのでした。おそらく着物を着て浮世絵の女性のような顔をした典型的ニホンジン顔のわたしがそれなりの英語で話すのが面白かったんでしょう。この時だけでなくても、街路をひとりで彷徨うニホンジン女性が珍しいらしく、窓拭きのオジサンが「コニチワ」と笑顔で手を振ってくれたり、どういう訳かハンガリーではいろんなところで大モテでした。しかしこの旅で、わたしの内面では、ニホンの居づらさを感じつつ、自分の中のニホンにとまどいを改めて感じました。 

 しかしながら、まだキッカケは訪れていませんでした。なぜなら、このステップはあくまでわたしの中では、瞬間に過ぎず、3度の食事ではなく、オヤツ程度の役割しかなかったからです。

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