logo 私情つうしん 第19号 2000年1月発行

ペキンスカヤの中庭で  (17)

by 中津燎子

連載の前の回

 とうとう『私情つうしん』はどこかに消えちゃったのかと思っていたら、突然又あらわれたので、私も又ペンをとることになった。めでたしめでたし。

 先日、私が住んでいる地域の隣町の小学校に行ってボランティアの仕事をしたので、その時のことを書く。何の仕事か? というと「私の人生について話しをせよ」という要望だった。その小学校では5年生のクラス全員が先づ、「自分自身の生まれと育ち」についてのききとりからはじめ、次は両親についてのききとりをやり、最後に他の大人たちの人生をきくことで社会科の授業が構成されているのだそうだ。「だから中津さんの生きてきた歴史をかいつまんで話して下さい」と頼まれたって、私の人生は74年間なんだヨ!! その74年間のすったもんだをどう「かいつまんで」いいものか? とかなり頭を絞った。

 結局、私の一生を3部にわけることにして第一部は「児童期」。3才からロシアの町で、実生活上のロシア語と書物と教科書の中でしか目にしない日本語との2つの世界で奮闘した12才までのおもい出。第二部は12才で帰国して日中戦争、日米戦争、敗戦、占領、朝鮮戦争と戦争だらけの30才までの「青春期」。第三部は31才から渡米留学して10年。それから帰国して現在までの「英語教育」に関わってすごして来た「成人期プラス老人期」。

 なるたけわかりやすい言葉をえらんだが30人程の子供たちの丸い眼の光をみていると、どの位理解してもらえたか、あまり自信がなかった。しかし質問時間になってびっくりした。日本の子供たちは質問をしない方だと考えていたが、皆けっこうずばずばきくのである。そのうちのいくつかを順々に紹介していこうと思う。

 質問(1)「中津さんは何故英語を勉強したのですか?」 私の英語学習の動機は単純明快、「飯の種」以外何もない。昭和20年代の日本は連合軍特に米軍の占領下だったから、英語を知らないといい仕事口がなかった。たまたま当時の電話局、今のNTTの英語電話交換手として試験に合格して働き出し、仕事口をよりたしかなものするために真剣に勉強をはじめた。毎年試験があってその成績で給料が上下したから真剣にならざるを得なかった。1年位たつと、勉強する理由がもう1つふえた。これも単純と言えば単純、「英語のケンカに勝ちたい」一心だったのである。

 当時、肩で風を切る戦勝国の軍人に占領されている国の人間としては、どんな摩擦やトラブルがあっても、なかなか正当な主張が出来にくかった。説明、主張、反論をするために私の英語学習は火をふくような熱心さで進み、とどまる所を知らなかった。言葉を使ってのケンカに勝つための論理の組立て、発音の正確さ、相手の分析など、必死で勉強したが、今も私の中に成果は残っている。ケンカに勝つためのヒケツは4つある。(1)相手の主張をよくきく。(2)それに対して自分の意見をはっきりさせる。(3)それをできるだけムダのない文章にする。(4)その文を大きな声ではっきり言う。相手に声が届かない時は負け、である。これからの子供たちに一人残らず、日本語・英語両方でこういう自主勉強をやってほしいものだ。


プロフィール
1925年福岡市に出生。3才で、日本領事館で通訳として勤務する父に連れられて旧ソ連領のウラヂオストック市に渡る。1936年、日本に帰国。戦後、1956年渡米。結婚し2児を連れて1965年帰国。以降、英語塾を開き、東京・大阪・九州で異文化対応と発音訓練を教えて現在に至る。