私情つうしん 第19号 2000年1月発行
この夏だったか、神奈川県のある私立高校で先生方の研究会が開かれた折り、一人の先生が嘆いていた。その中高一貫制の学校では自由を標榜していて、ほとんど校則がない。それをいいことに生徒たちは羽を伸ばして楽しんでいるが、教師としてたしなめ指導しようとしてもその根拠がなくて困ると言うのである。ハメを外しそうになる生徒を救おうとしても「だって私たちの自由にして何が悪いの?」というわけである。先生は「戦前は教育勅語というものがあって指導の原則がはっきりしていた」とまで言う。教育勅語を持ち出すからといってさして年輩の方ではない。まだ30歳か40歳代ぐらいではないかとお見受けした。野放図になっていく子どもたちをなんとかしたい、そのためには自由を制限するための原則がほしいと言外に聞こえた。
その後秋になって、今度はある地方の国立高校(国立高校には超有名進学校とそうでない学校とがあるが、ここは後者)でアメリカから帰ってきた3年生の男子生徒がつぶやいていた。「ぼくがアメリカで覚えてきた自由と、この学校でみんなが言っている自由とは何か違うみたいなんですよねぇ・・・」。こちらもまた自由を標榜する学校の一つで、彼自身、それにひかれてこの学校を選んだと言う。
いずれも帰国生徒の受け入れではそれなりに地域に知られている学校だが、実際のキコク比率は全校生徒の一割に満たない程度である。キャンパスを歩いていると、たしかに流行りの茶髪だのルーズソックスだのの生徒がいる。それでもぼくの住んでいる町で見かける茶色と言うよりは銀に近いような髪の色も目にしないし、耳元や目元がキラリと光るような子はいない。渋谷の町に出かければ、夏はガングロばかりでどこか南洋のリゾートのようなものだったし、最近は寒さのせいかちょっと大人しくなっているようだがヤマンバと何人もすれ違う。誤解のないように言っておくが、ぼくはガングロもヤマンバも悪いとは思っていない。本人たちは手間暇もお金もかけてあの装いを磨いているのだろうから、その努力は尊重したい。いずれにしろ、ぼくが訪れていた学校は両方とも、それなりに中堅どころのまじめな学校として位置づけることができると思う。
問題は「自由」である。結論から先に書いてしまおう。「自由とは、義務である」。すなわち、自分で決断し、それに従って行動したことの責任は取らなくてはならないという義務である。よく「自由と責任」「権利と義務」などと言うが、ここでのポイントはむしろ「自分で決断する」ことに置きたい。自由であるのならば、誰も判断を示してはくれない。ルールはない。モラルさえも、ないかもしれない。他人は(教師であろうが同級生であろうが)アテにできない。何も基準がないところで自ら情報を集め、価値を定め、決断しなければならない。自分で決めなければならないという義務である。これは実は本人も「指導する者」もとってもシンドイ。
卑近な例をあげよう。昨日まで給食があった学校で、明日から何を食べてもいいことになったとする。弁当を持ってきてもいいし、校外に出て何かを買ってきてもいいし食べてきてもいいことにする。校内で調理してもいいことにしてしまおう。もちろん、何も食べないという選択もあり得る。さて。どうするか? 昨日までは給食を残さずすべて食べなさいとうるさかった教師も、一切何も言わない。友達を見習って同じようにする? それじゃあつまらない。やっぱりここは自分が食べたいものを食べたい場所で食べたいように食べよう。自分で作るのもいい。そのためには食材を買ってきて調理する腕が必要だ。毎日同じようなものばかりを食べていたら栄養が偏るし、飽きるからバランスも考えよう。お腹の具合がよくない日は軽くしたい。・・・そのすべての判断が自分に委ねられるのだ。何もできず栄養失調になっても自分の責任だ。
もう一つ例をあげよう。日本のプールではプールサイドを走ってはいけない、水に飛び込んではいけない、アクセサリーを身につけたまま水に入ってはいけないなどと禁止事項がいっぱい掲示してある。ご丁寧に1時間ごとに10分ずつ、誰も水に入ってはいけない休憩時間なんてものもある。海外のプールではそんなことはないようだ。そのかわり、「死んでも責任は負いません」と物騒なことを書いてある。準備運動をするかしないか、何をするのがいいか悪いか、自分で判断する義務がある。逆に言えば溺れて死ぬ自由もあるのだ。
学校という空間で死者が出たらそれはやっぱりよくないだろう。結果的に自分を滅ぼすようなことをするのもまずいだろう。だから自由にも一定の限度があっていい。言い換えれば、学校という場に自分を殺す自由はなくてもいい。その分、学校に行かないという判断をする自由は必要だ。
だが焦点はやはり「自分で決める」ということだ。そこが欠けているのが、冒頭の男子生徒の感じた「違い」なのかと思う。彼の感じている疑問をあえて言葉にすれば、まわりの子どもたちが自由そうに行動しているのはいいが、その背景にあるべきそれぞれの決断、根拠が彼には見えないということだろう。
だとすれば冒頭の教師への一つの回答はこうなる。「それはあなた自身がいいと思ってやっていることなんですね」と生徒に聞くことだ。「仲間に見習って」でもなく、「それが流行だから」でもなく、「この世界にあなただけたった一人残されたとしても、それがあなたが決めた、あなたがやりたいことなんですね」と、念を押して聞いてみればいい。なぜそれがいいと思ったか、議論を戦わせてみればいい。
結局、行動の自由よりも、精神の自由が問題なのだ。日本の学校は、いまだにこの区別がついていないのではないだろうかと思い当たった。
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