私情つうしん 第19号 2000年1月発行
by Chi-chan
連載の前の回へ小学校5年の時に、唯一わたしの「帰国子女」度を寛容に受け止めて下さった担任の先生(本業は画家)に後にわたしが28歳の折に結婚の報告がてらお会いした時にこの話を生まれて初めてうち明けて判ったのですが、当時の小学校では、バックを塗りつぶすのが正しい、という教育方針のようなものがあったそうで、画家であり、海外にもよく行かれるその先生は「まったくのナンセンスだ」と学年会などで随分と主任の先生などと話されたそうです。しかし、この先生の指摘がまったく理解できない教師が多かったそうです。
その他にも、学校では油引きの床にアメリカでしていたのと同じようにスカートのまま、あぐらをかいて座ったりもして担任の先生の眉をひそめさせていました。当時は珍しかったワーキング・マザーたる母親は学校に呼びつけられ、「あなたの子は行儀作法がなっていない。授業中に靴を脱いでかかとを踏んづけている、床にスカートのまま座り込む、頬杖をついて授業を聞いている、おしゃべりばかりしている、一体お家でどんな躾をしているんですか」と叱られることも、おそらく1度や2度ではなかったのではないかと思います。最初のうちは「アメリカ帰りなので、少し変わったところがあっても見逃してやってほしい」と頼んでくれた母親も、度重なる苦情に耐えかね、「Chi-chan、ニホンではこういうことをしたらアカンのや」と言うことが多くなっていきました。母親はこの時、ニホンの中の「大学紛争」に巻き込まれ、体制側のニンゲンというレッテルを貼られ、親は親で子どもを顧みる余裕のない日々を送っていたのでした。
そのためか、「図画事件」以降通学友だちに突然「明日からあんたとは一緒に行かへん」と言われたり、かくれんぼをしている間に他の子たちが示し合わせて帰ってしまう、などの出来事も「我慢し」「あんたも何か悪いことしたんちゃうか」という一言で片づけられてしまうような状況に陥っていくのでした。家庭内では生まれて間もない弟の「姉」であることを要求され、親にわがまま言うことも甘えることもならず、次第に自分の想いを飲み込んで親に話さない子になり、学校に行くのがつまらなくなると水銀体温計を摩擦熱で37度くらいまで人工的に発熱させては家で本を読んでいる、今でいうと登校拒否児のようになっていくのでした。
ただ、親もあまり長く休まれるのも困るので、微熱くらいでは休ませてくれなくなり、嫌でも学校へと放り出されてしまうようになりました。通学路を一人でトボトボと歩きながら、自分の方に向かって走ってくる大型トラックを見つめながら「ああ、このまま道路にフラーっと出たら死ねるかなあ」とおぼろげに考えながら、「でも死ぬのって痛そうだからやめとこう」という単純な理由からいつも断念していました。家に帰っても、共働きの両親は遅くなるまで帰ってこない、遊ぶ友だちもいない、という状況で、よく家の中庭を見つめて「人間って死んだらどうなるんだろう」と考えながらボーっと何時間も縁側に座っていました。
その後数年の間に、徐々にわたしは自分がニホンジンというカテゴリーに入っていること、ニホンジンらしくしなければならないことに気付いていきました。しかし、自分ではどうしたらニホンジンらしくなるのかがまったく判らず、低学年の時に手を挙げない日がないほど自分の意見を言っていたわたしが次第に一挙手一投足にビクビクする日々を送るようになっていったのでした。様々な試行錯誤をするものの、すでにできあがったわたしのイメージというものは崩れるはずもなく、特定の友人も作れないまま学年だけが進行していきました。
前述の5年生の担任の先生には少し救われて、1年間はかなり楽しく暮らしたものの、その先生が6年生の時に転勤になり、また純ジャパな担任の先生になってしまいました。ここでまたわたしが一大決心をする「事件」が起こるのでした。
6年生といえば卒業、卒業といえば文集、という日々が展開し出し、その企画のひとつとして、「自己紹介」ならぬ「他己紹介」の欄を作ろうじゃあないか、という提案が、ある日担任の先生からなされました。つまり、いつも親しくしている友人同士で相手の紹介文を書こう、というのです。その頃には、わたしは「はみご」(京都弁で「仲間はずれにされている人」のこと)同士の3人グループの一人に入れてもらっていると勝手に思っていました。母親はその関係をあまり好ましく思ってなかったようで、そこへ遊びにいくのをひどく嫌っていたのですが、おそらく担任の先生もここのグループに入れると思われていたのではないか、と思います。ところが、「さあ、じゃあ好きなモン同士集まって!」と先生が叫ばれた途端、わたしだけが見事にポツン、と取り残されました。プライドをずたずたに引き裂かれながらも、先生に促されて「はみご」グループの子に「わたしも入れて」と言いにいくと、「いや」と断られました。わたしは先生に向かって「もういいです。わたしは自分で自分の紹介を書きます」と宣言したのですが、先生は先生で「いや、他己紹介だから他の人に書いてもらわないとアカン」と譲って下さいませんでした。最終的に先生の仲介で学級委員のところに混ぜてもらうことになり、わたしが個人的に知り合いでも何でもない関係の中に入れられてしまいました。 仕方なくにわかにその子たちの家に遊びにいったり、同じマンガを読んで共通の話題を無理矢理作って文集は形になったものの、わたしはひどく傷つき、そのまま同じメンバーが行く公立中学には絶対に行かないぞ、と堅く決心しました。
6年の夏休み前になって、突然わたしが「私学を受ける」と言い出したものだから、親は当然びっくりしました。「何でや」としつこく聞かれるのですが、この頃には親も純ジャパ化していたため、本当のことを言っても「逃げてる」と非難されるのは目に見えていました。返答に困った結果、「わたしの行く地域の公立中学は荒れてて、窓とか割れてるし、受けようと思ってる私学は建物がキレイだから」と答えました。わたしの親は基本的にracistでsnobで prejudiceに満ちたニンゲンでしたので、一応これで納得したようでした。
28歳で結婚することになって、親と決裂することになる大喧嘩の際に持ち出したくらいですから、親は親でわたしのことをそう見てたのかもしれませんが、かなり長い間これが本当の理由だと信じていたようでした。
動機が動機だけに、何としても受からないとシャレにならん、という思いが強かったためか、希望した私立中学校に辛うじて合格することができました。
こうなると行き着くところは「わたしは一体何?」「わたしは何のためにここにいるのか?」「わたしなんかいない方がいいのじゃないか」というお定まりのジレンマで、見事なまでにアイデンティティ・クライシスにはまってしまいました。
このような状態に陥らないようにするには、この事実に向き合わないこと、と決め込み、一層ニホンジン化することに血道を上げだしたのは、むしろ中学入学以降の方が激しかったのでした。わたしは歌舞伎を一人で観にいく高校生だったし、(今だと相当変なヤツですが、当時だってかなり変なヤツです。そんな趣味持った友だち周りにいなかったよ)、漢字を人より研究してたし、日本文学や世界文学を日本語で読み、絵画をたしなみ、校舎の一角に佇んで物思いに耽る哲学タイプで物静かな生徒でした。当時のわたしを知っておられ、現在では一緒に仕事をするようになった某先生からも、「あなたはどっちかというとお友達の陰にかくれて立ってる目立たない生徒だったわよね」と折り紙付きの高校生をしてました。
そんな状態は大学を出て講師として教職の道を歩み始めた23歳の頃までずっと続きました。