logo 私情つうしん 第18号 1999年10月発行
旅立ちの朝−−越境する/したい人へ

by 浦田未央

あのまま、あの国に留まっていたら、どうなっていただろう。どういう「私」になっていたのだろう――。帰国してもう何年も経つが、未だに、時々こういった想いにとらわれる。人生に「もしも」なんてないし、そんなことを夢見てもしょうがない、そう思っても思考は「あったかもしれない、違った未来」を思い描いてしまう。プロムに行くワタシ、ハイスクールの卒業証書を手にするワタシ、日本人でない人たちに囲まれてニッコリ笑うワタシ――。
 それは取りも直さず、帰国してからのあまり幸福でなかった自分の生活を映す鏡、それもすべて反対に映す鏡のような夢想なのだ。「ここではないどこか」へ、本当に行動できない自分への苛立ちも含めた、夢想。30過ぎの大人が見るには少し恥ずかしいような、夢。
 そんな甘っちょろい夢を打ち砕いてくれるような映画に出会った。『バウンスkoGALS』という公開当時ちょっと物議を醸した作品だ。
 当初、「コギャルの生態を描いた作品」だの、映倫からR指定を受けるだので話題をふりまいた。結果として、世間はただのちゃらけた映画と見なしたように思う。
 でも、全然違うのだ。世の評判とは違って、れっきとした青春映画なのだ。そしてこの作品には一人の帰国子女が登場する。

映画は、ある女子高生が仙台から新幹線に乗り、上京するシーンから始まる。彼女の名前はリサ。日本国籍とアメリカ国籍の2つのパスポートをなぜか持っている。思い詰めたような、でも毅然とした態度で、流れる風景の先、どこか遠くを見つめている。手元の東京の地図には渋谷に丸印が付けてあり、矢印がそこから上野を経由して成田まで伸びている。そしてその先には"U.S.A."と。
 一方、東京のどこにでもありそうな高校では、いわゆる「コギャル」らがおしゃべりに熱中している。「20歳までに遊び尽くして、そしたら遊びはきっぱりやめる」と言う彼女たちは、援助交際でも何でも経験済み。ルーズソックスのたるみ具合に気を配り、お化粧にもマニキュアの手入れにも余念がない。ケータイで「客」と連絡を取り合い、援交の仕切をするのはジョンコ。子どもをおろしたその日から「仕事」に復帰するのはマル。ジョンコの一団とは一線を画し、しかし授業にも出ず渋谷でストリートダンシングに明け暮れるのはラクちゃん。
 リサ、ジョンコ、ラクちゃん−−交錯するはずのない彼女たちの人生が、わずか一瞬だけ混じり合う。ある夏の日、金曜の午後2時から土曜の朝11時までの、24時間にも満たない1日の物語である。

 日本の学校にも家族にも愛想を尽かし、コンビニのバイトで貯めた30万円でアメリカへ旅立とうとするリサは、もう少しお金を作ろうと色気を出して、渋谷のブルセラに立ち寄る。パンティや制服を売って小金を稼ぎ、さらに「ダンス」のビデオの撮影でもうひと儲けしようとしたとき、事件に巻き込まれ、30万円プラスαを取られてしまう。撮影の場にたまたま居合わせ、一緒に逃げたラクちゃんは、リサの話を聞いて心動かされてしまう。彼女は、自分はしない援交をして取られた分のお金を稼ごうと提案する。さらにラクちゃんは、長いこと連絡を取っていなかった幼なじみのジョンコに電話をし、リサを助けて欲しいとお願いするのだった。
 一方のジョンコは、ヤクザの親玉に、援交で商売を邪魔されているから、しばらくは大人しくしていろと脅されたばかりだった。が、断交していたラクちゃんが電話してくるほどに「何か」を感じ取ったジョンコは、リサのために一肌脱ぐ決意をする。彼女たちの長い一夜が始まろうとしていた――。
 一見、対極にあるように見えるリサとジョンコとラクちゃん。が、「筋を通す」ことでは共通している彼女らが、朝を迎える頃には確実に友情を育んでいる。東京の夜を駆け抜ける3人の少女たちには、何が待ち構えているかなど知る術もないのだが。
 この作品を支える、いわば陰の主役ともいうべき大人たち(とても怪しいのだが)も見逃してはならないし、渋谷という街やケータイや女子高生など、時代を映す小道具がしっかりと存在感を放っている。ここでは札束さえも、コギャルたちの手にあるときはただのオモチャのようなのだ。それなのに、札束やお金がリサの手に渡ると、不思議と実体を伴ってくる。なぜだろう?

そう、この作品の中でリサが果たす役割とは、「むき出しの神経」としての存在、そんなところにあるのだ。ニューヨ−クに行くという熱い思い、周りと自分とのズレを痛いくらいに感じている肌。大人になる過程で制御しようとする、感情というやっかいな生き物、もしくは、ことさら傷つきたくないと思ったときに自分の感情をオブラートで包むという作業を、彼女は拒否する。リサは自分の強烈な想いだけを武器に、渋谷という異国の街を闊歩する。
 ジョンコやラクちゃんたちとの違いを最も感じているのはほかならぬリサ自身である。ライフスタイル、考え方、今の日本に生きるナマの女子高生とアメリカの高校に行こうとしているリサは合うはずがないのだ。リサの孤独の源は詳しくは描かれていないが(その必要もないが)、日本に生きることの違和感――ひいては日本という国自体への違和感――は、充分すぎるくらいに伝わってくる。
 そしてその違和感や、「違う」という一言を言ってしまうのがリサの性格として描出されている。70歳を越えたじいさんの話し相手を務めれば、つまり「普通の」女子高生として相づちだけ適当にうっていれば30万円稼げるという仕事で、従軍慰安婦の話題になったときリサは猛烈に反論する。ジョンコだったら、割り切って「普通の」女子高生を演じきれたことだったのに。
 だがこの違和感こそが自らを外へと駆り立てたものだったのだ。その結果が家出という形であったのだけれども。
 リサは行動する。「ここではないどこか」を目指して、飛び立とうとする。
 かたや、その想いに突き動かされ巻き込まれていくラクちゃんとジョンコは、子どもと大人の境を、冷めた眼でふわふわと渡り歩いている。何年か先の自分たちの将来は見えないけれども、若さだけは失っているだろうことを見据えている彼女たちは、期間限定・賞味期限付きの春を謳歌しているのだ。世の中、何か激しく「違う」と、彼女たちも身をもって感じ取っている。周りの大人たちの理屈はおかしいということを、嫌になるくらい知っている。けれども、ジョンコたちに違和感への出口はない。そもそも、そのような発想すらない。だからこそ身体を張って、大人の論理を手玉に取るように、今を目一杯楽しもうとしている。あたかもゲームのようにお金やブランド品をオヤジたちに貢がせ、そうすることによって、別の形での歪んだ出口が、結果として現れる。
 そんなジョンコとラクちゃんの前に突然姿を現したのが、飛び立とうとしているリサであった。そして、方向性も方法論も異なっていたけど、違和感と出口への希求は共通していた彼女らは、つながった。それは3人にとって1つの飛躍であり、ジョンコとラクちゃんにとってはある出発点の誕生であった。

もしかしてリサの強さは、日本以外の世界があるということを知っている者の強さなのかもしれない――。見終わってからふと、このように思い当たった。何という皮肉だろう! ずっと日本で育っている者も感じるであろう違和感への出口を、ほかならぬリサが見つけられるとは。外の世界を知っている外国育ちのおかげだったとは。
 同じ帰国子女でも、リサのように日本の外に出口を見出し、外国へ飛び立つことのできる者もいれば、そう簡単に行動できない者もいる。そしてその違いを考えるとき、志向性という言葉にぶつかる。日本や日本人に向かっているのか、否か。その根本(アイデンティティ)の部分について考えるのをすっ飛ばして、外国に向かうのか。生きる場をどこに求めようかと考えを深化させたとき、志向性は自ずと決まる。
 そうすると、「あったかもしれない、違った未来」を思い描いていた自分とは、日本に対する強い志向性を示しながら、同時に、垣間見た外国とそこへの断たれた想い――断たれているが故に根強い想い――のアンビバレンスの中でもがいていた自分なのだ。1つの出口の存在を知っていながら、それでも日本に根づこうとあがく自分の姿だ。
 が、出口は1つだけではない。必ずしも「外」へ飛び立つことだけが出口ではないのだ。日本という国を志向しているのなら、その中に何らかの出口があるはずなのだ。出口を突破口と言いかえてもいい。日本の中に、どのような形であろうとも自分の生きる場所を見つけること、その努力が突破口となるのではないだろうか。
 出口を今、この場所に作ろうともがき、「キコク」や「純ジャパ」を超えて他者とつながろうと努力し、もしかしてつながったかもしれない一瞬、「あったかもしれない、違った未来」という夢は、意味をなくす。

結果として、あの国に留まっていたとしても、あまり今と変わらない自分がいたのでは、と思う。どのような青春を送っていようとも、この不安定感はどこにでもつきまとっていただろうし、基本的な性格などそう変わるものではない。
 日本での友達、不安定なアイデンティティ、根っこのある生活、行けなかった自分に対する理由はいくらでもつけられる。でも思うに、行きたきゃ、行けばいいのだ。飛び立ちたきゃ、飛び立てばいいのだ。日本人として行くことに心配があるのなら、その揺らぎを抱えたまま一人の帰国子女として行けばいい。他者とつながろうとする気持ちがあれば、心の中に拠り所があれば、どこへだって行ける。
 根っこは必ずしも特定の場所に限ることはないことがわかると、「ここ」も「外」も、「日本」も「外国」も、ボーダーはうんと低くなる。

 飛び立った後、リサはどうなったのだろう? 決してバラ色の未来が待ち構えているわけではないだろう。ある「出発点」を見つけただろうジョンコやラクちゃんとて、すぐに自分の進むべき道が見えてくるわけでもなかったと思う。
 そうして、自分の人生の舵取りもうまくできていない30過ぎの大人は、少し心配になる。一瞬つながった後、彼女らはどうなったのだろう? どこへとも続くかわからない扉を開いて、本当にどこへ行ったのだろう?
 人生が限りなく未知であるのと同じように、彼女らの人生もまた、分からないと言うしかない。ほかの人の人生を肩代わりすることができない私達は、せめて幸運を祈ることしかできないのだ。

 リサは幸運にも自分が何を欲しているのか見極める眼と、行動に移すだけの実行力と意志の強さを備えていた。悲しいかな、17歳頃の自分には、ましてや帰国したての10歳の頃には、そんな言葉をまだ持っていなかった。ただ、あの当時よりは言葉を獲得した今、これだけは言える。
出発点はいつだって、どこにだって転がっている。それをつかみ取るのは自分次第だということ。「ここではないどこかへ」行こうと思えば、行けるということ。他人とつながろうと思えば、つながれるということ。

 旅立ちの朝、晴れ渡った早朝の渋谷。少女たちは朝陽のかけらに永遠の輝きを一瞬だけ見たのではないだろうか。彼女らの友情にも似た、一瞬のきらめき――。


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