私情つうしん 第18号 1999年10月発行
『帰国子女』の片隅にいる、まだ見ぬ友へ
by Chi-chan
わたしは1962年2月生まれで現在37歳、2児の母であり、夫婦別姓実践者であり、京都で公立高校の英語教員として働く『帰国子女』の片隅女です。
実はわたしがアメリカはロサンゼルス(地理専門の同僚に聞くと、これが日本式の「正式」な表記なのだそうだ)に行っていたのは、今は昔、頃はケネディ大統領の暗殺された翌年の1964年から、アメリカではベトナム戦争や公民権運動がキーワードとして語られる頃の1967年だったということです。
「だったということです」というのは、後に歴史の流れの中でそのように位置づけられると学習したために言えることで、もちろん当時2歳のわたしが知る由もありません。日本ではちょうど「高度成長期」などと言われる頃かと聞いております。渡航当時は開通していなかった東海道新幹線が、5歳で「帰国」した時には開通しており、車窓から見える富士山を「大きな山だなあ」と、ぽかんと眺めていたのを微かに記憶しています。
<私は何ジン?〜帰国直後まで〜>
事の始まりは、まだわたしがidentityなどとは無縁の頃に両親がアメリカへ留学する決心をし、幼いわたしを連れていったという事実にすぎません。
気がついたら、わたしはアメリカで暮らしていた。気がついたら現地のPreschoolに通っていた。Preschoolに行った初日に「日本の歌歌って」と言われ、「サクラサクラ」を歌ったらしい。帰ってきて、「今日先生が『プチ・ガール』て言わはった」と母親に言ったらしい。(全然覚えてないけど)「プチ・ガール」がpretty girlの意味であることに母親が気づくのにかなり時間がかかったらしい。それから毎日車で送ってもらって通ったPreschoolには、Lisa Kimという名の子がいたり、金髪青眼の子がいたり、茶髪灰色眼の子がいたり、肌の色が黒い子がいたり……気がついたら「子ども英語」を外で話し、家の中では両親と日本語で話していた。もちろんわたし自身の中に「何ジン」という意識などあろう筈もありません。
ニホンに「帰って」から、「ヨセミテに行ったやろう」、「グランド・キャニオン見に行ったやろう」と当時の写真を見せながらよく親が嘆いたのですが、わたしがアメリカのことで覚えていることといえば、グランド・キャニオンだと思う場所でchipmonkにお菓子をやったことや近所の友達と遊んだこと、ディズニーランドで潜水艦の乗り物に乗って水中の景色に見とれたこと、ビートの缶詰が好きだったこと、dry fruitsは嫌いだったこと、Preschoolの園長先生がわたしの昼寝中(実は眠れなくて狸寝入りをしていた)にわたしの簡易ベッドの横でブラッシングをしていて、見事わたしの頭にブラシをコーンと落として当ててしまい、"Oh, I'm sorry, Chi-chan..."と呟かれたこと……どれも断片的で関連を持った記憶ではないのです。
アメリカにいた当時のわたしは、すぐに「仕切り」たがるタイプだったようで、三輪車に載ったまま、傾斜したガレージを滑り台よろしくシャーと下ろう、と考えたらしいわたしは、(母親の言を借りると)「とても偉そうに」「見とりや(in American English)」とデモンストレーションをしたかと思うと、見事にブッこけて「ウワアーン」と大声で泣く声だけがガレージ内にこだました、というエピソードを持つほどのおっちょこちょいな子でした。
わたしが5歳になった年の夏に、母親が「日本に帰るで」とわたしに話した時も、「帰る?」「どこへ?ここがわたしの家でしょう?」と心では思いつつも、飛行場で飛行機に乗ってどこかへ行くんだなあ、と思っているうちにニホンとかいう、家の壁に貼ってあったアメリカ合衆国の地図には載っていないところに連れて来られたのでした。
そして「シンカンセン」という乗り物に乗り、初めて見た気がする「おじいちゃん」や「おばあちゃん」のいる家に連れて来られ、靴のまま「タタミ」というものに上がってしまい、「あかん、あかん。靴脱いで上がるんや」と怒られた家でしばらく住むことになっていました。気がついたら、「ヨウチエン」というところで新しい人たちと出会い、「アメリカの歌歌って」と初日に"Twinkle, twinkle, little stars"や"Ring-a-rong-o-roses"などを歌ってみせたりするハメになっていました。それでも、はっきり記憶しているのは、子ども心ながら「またいつかアメリカに帰るんだ」「アメリカにはいつ帰るんだろう」と毎日のように思っていた事でした。
ある意味では、この頃は比較的幸せな時でした。半年間だけ地元の公立幼稚園に通い、まもなく隣接する公立小学校に入学した後も、京都のど真ん中の、伝統的かつ保守的環境に放り込まれた割には、NHK日本語を話していようが、英語で悪態をつこうが、友達に「あいの子」と呼ばれようが、日本語(それも京都弁)の意味があまり分かっていなかったこともあって、あまり「ヘコム」ということを知らずに暮らしていたのです。
どうもおかしいな、と感じ始めたのはある友人の家に遊びに行った時のことを母親に話した頃からでした。
わたし「ねえ、わたしはアメリカ人よねえ」
母「何ゆうてんの。日本人やろが」
わたし「??」
この会話で母親はわたしが大きな勘違いをしていることに気づいたのでした。
母「あのな、Mommyは日本人や。Daddyも日本人や。日本人と日本人の子どもは日本人なんや」
わたし「????」
今でもはっきりと記憶していますが、このトンチンカンな会話の原因を作った出来事とは友人と友人の母親の何気ないことばだったのです。
友人「なあ、お前『あいの子』なんやろ」
友人の母「何言うてんの。『あいの子』いうたらガイジンさんとニホンの人の子どものことやで。あんたは何ジン?」
わたし「アメリカジン」
友人の母「???あんたのお父さん何ジン?」(国際結婚家庭かな、と思ったらしい)
わたし「ニホンジン」
友人の母「ほな、お母さんは?」
わたし「ニホンジン」
友人の母「……ああ、ほな、あんたはアメリカで生まれたんか?」(生地主義のための2重国籍児だと思ったらしい)
わたし「ううん。2歳の時にアメリカへ行って5歳の時にニホンに来た」
友人の母「??????」
当時はまだ「帰国子女」や「ハーフ」ということばすらそれほどポピュラーではなかったので、わたしのようなニンゲンを表すことばは、「あいの子」「アメリカ帰り」「アメリカ」というような表現でした。
この辺りからわたしの「???」の日々が始まることになるのでした。
わたしは何ジン? どうしてアメリカにまだ帰らないの?……日増しにその想いがつのるばかり……アメリカの友だちに忘れられちゃうよ、Mommy、Daddy、早く早くアメリカへ帰ろうよ……