私情つうしん 第16号 1998年6月発行
前章で日本人の一般的特性として、むきだしの事実や真実はなるたけ知りたくない癖がある、と書いた。もちろん、人間はどんな文化背景を持って生きていても大なり小なり自分にとってイヤなことはききたくもなければ知りたくもないのがふつうである。私だって自分をブスだと承知しているが目の前でブスだブスだと言われるとムカつく。
だが人間は年をとるに従って現実を直視し、自分のあるがままを受けいれることを学ぶ。ブスだって何か一ついい所あるぞと自分でみつけて生きてゆく。それが成熟なのだと思う。地球上の人間は皆、このようにきびしい現実から逃げながらも、やがてのりこえる筈なのだが、私の観察では、日本人は、一寸ちがう姿をみせているようだ。何か、気になることやトラブルが起こると、何よりも先づ「様子をみる」ことに熱心である。慎重なことは結構だが、見守るだけで何の手も打たないと災害は倍増するから困る。その次に、絶対必要な事実確認をとりあえず「後まわし」にする。更に最も重要な「決断」を「先送り」にして実際は何もしない。
(1)様子をみる。(2)確認を後まわし。(3)決断の先送りと言う3点セットの思考パターンは、私の知る限り日本人に過剰に多いような気がするのだ。ひょっとしたらこの3点セットのパターンは日本文化の中の美意識と直結しているのだろうか。
常に様子をみるのは「早まった行動をみせるとみっともない」と感じ、他の人間の様子をみて動くのは美意識と横並び安心感の合体の結果ではないか? (2)と(3)は「きびしい状況をあからさまに知りたくない」ために後まわしにして、後で責任をとらされるのをさけるために「決断」しないまま時のすぎゆくのを待つということではないか?
私が今までの70年の人生で実際に体験した「会議」と称する話合い、集会、打ち合わせ、談合等、数限りなくあるが、そのほとんどはこうした3点セットで終始して終わった。時々「……この話はなかったことにします」とかなんとかの一言でホントに一切が消え失せたことさえあったから驚く。
3点セットの例として最近で印象的なのは茨城の「動力炉核燃料事業団」の事故にまつわる処理のしかたがあり、過去の例では5、60年前に起こしてしまった太平洋戦争の後始末のまずさがある。殊に敗色がはっきりして来た頃から、日本軍参謀本部の、何を考え、何をやっているのか誰にもわからない愚かさかげんが目立って来た。私自身、18才から20才まで海軍系の飛行機工場で働いていたからイヤでも耳に入って来る。その典型が竹槍で抵抗しろと言う命令だった。昼夜を問わぬB29爆撃機の空襲の最中に何をねごと言ってるか?!と激怒した記憶がある。
現在、最も新しいホヤホヤの例としては、政府がやっている筈の行政改革と不況対策だ。これも多分、3点セットの会議をあくことなく、くり返しつづけている結果として現状があるのだろう。人々には不満が多少、あるらしいのだが日本人の大多数も又、3点セットを主流とする日常を暮らしているので、不満ははっきりとした怒りにはなり得ないままだ。日本は結局、自らを自らの力と発想で変えられないで外圧を座して待つしかない受け身文化の国でしかないのだろうか?