私情つうしん 第15号 1998年4月発行
十数年前のある日、友人のバーバラからたのまれて、7、80人位の外国人教師たちの集まりで話をしたことがあった。内容は、海外育ちの私が体験した「異文化摩擦」。
なにしろ物心つくか、つかないかの頃から「我が家の中の天皇国家・日本」と、外に一歩出たとたんにはじまる「ロシア文化プラス社会主義国家」の間でもまれていたから、摩擦なんて日常的なものだった。そんなこんなの5、60年の体験をもとにして「異文化お互い様リスト」を作って話をしたら、けっこうウケた。
乱暴かもしれないが、先づ地球上のあらゆる文化を2種類にわけて一つをソフト型、もう一つをハード型にまとめて、それぞれの特色をリストにしたのである。
ソフト型文化の人々は優雅で対立を好まない。物事の筋道に黒白をつけたがらず、むき出しの事実をみたがらない。生き方がそうだから言葉も又はっきりしない言いまわしが多い。豊かな感性にみちあふれた言語世界ではあるけれど、その感性を理解出来ない者、又は外部からの者にとっては春のかすみか、秋の霧のように捉えにくい。
ハード型文化の人々はそれと全く反対で、なるたけ物事を明白にしたがる。疑問は常に積極的に表明し、そのための対立など当然と考える。言葉も出来る限り明確な筋道をたてて構成されることをよしとする。
最初作った時にくらべるとリスト項目は2つ3つふえて現在は、(1)主張について、(2)対立の概念、(3)疑問、(4)自他の区別、(5)情けということ、(6)分析習慣、(7)言語感性、(8)言語音声、(9)きく能力、(10)事実把握能力 と言う具合に10項目になっている。それぞれの項目についてハード型、ソフト型文化の人々がどう考えて、どう行動するかをならべてゆくと最終的にその文化の中の学校教育の方向性が浮き出て来るから面白い。ソフト型の学校では疑問や主張よりも和を重んじ、常に人の身になって考える協調性をしこまれる。物事の分析解明よりも、まわりの様子をみるのが先であることを訓練され、秩序を教えられる。考えてみればこれは日本の学校のあり方で、出来上がり品は日本人そのものではないか?
ハード型も同じ。声高で常にWHY? とききまくり理由を分析し、結論を出すのが当然の教育の結果、大多数の西洋人が出来上がる。私個人としては、どうもロシア人たちは一寸ちがう要素を持っているようで、徹底分析がいつのまにかシベリアの雪の中で消え失せがちの傾向がある。
日本人にとってかなり不都合なことは、世界の大多数の文化はハード型に傾斜し、民族も又ハード型思考によって行動するが、日本のようなソフト型文化の純粋結晶みたいな所はみあたらない。結果として、「異文化摩擦」は日本にとって、永遠によくわからない謎のままで今日に至っているような気がする。何のことはない。日本そのものが世界にとって謎なのだが……。
謎の典型は項目の10番目、事実把握能力のことだ。日本人には事実や真実は知りたくない癖が強すぎて何があってもとりあえず演歌をうたい、次に先送りブルースをうたい、そして何もしない。昭和19年の日本軍本部のエリートたちもそれをやったが、現在の政治家や官僚エリートたちも又同じことをやっている。考えてみると学校でこのようにしつけられたのだから、あたりまえと言えば言えるのかもしれないが。