私情つうしん 第15号 1998年4月発行

いじめという名の制裁 (2)

by Leah Moore

前号よりつづく


ruler  私が中学生だった約20年前、海外生活経験者は少しずつ増えていたとはいえ、まだまだ珍しい時代でした。特に、受験で皆が頭を悩ませる英語が出来るというのは、嫉妬心をかきたてます。さらに、生意気盛りで多感な10代での海外生活経験は、たとえ短期間であっても思考回路に影響を与えます。普通の日本人は認めたがりませんが、海外生活の長い日本人には「思考が欧米的だね、短期間だけど多感な時代を過ごしたからね」とよく言われます。そんな異質な存在であった私は、中学校のクラスで、学年で、いじめの対象にされました。
 中学3年生の時は、昼食の弁当は自由にグループを組んで机をならべて食べられるようになっていました。仲良かったグループから排斥された後は、私は一人で弁当を食べました。担任の教師がいつも教卓で弁当を食べていました。私が孤立していることは、教師にもわかっていましたが、教師は私に対して何もアプローチをしてきませんでした。
 休み時間には一人で本を読むようになりました。寂しさを紛らわすためでもあり、また「黴菌扱い」などの露骨な嫌がらせをされたりすることを最低限に抑えることが出来たからでした。クラスにはどのクラスにもいる「優等生・良い子グループ」の子達がいて、彼女達は「黴菌扱い」等はしてきませんでしたが、私には極力関与しないように心掛けていたようです。彼女達に私がアプローチするのを恐れてか、夏休み前ぐらいにはC代が「良い子グループ」に急接近し、2つのグループが急に仲良くなりました。時々、2つのグループが一緒に弁当を食べていました。
 3年生の社会科の教師は、よく授業中に生徒がまわしたりする手紙やメモをみつけだしては大声で読み上げました。そのことに気づいたある女の子が、(私はその時、それが罠だとは気がつきませんでした)「こぞー、死ね」という言葉を英語でなんて書くの? と聞いてきました。時々、ロックのファンの女の子がファンレターを出したいので英語にしてと頼みに来ていたので、何かの歌詞の訳かと思って気軽に引き受けました。メモに書いて渡すと、それは社会科の授業の時に床に落とされ、社会科教師が大声で読み上げました。その字が私の字だということに教師が気がついたかどうかはわかりません。その教師の名前は「コウゾウ」といいました。「こぞー」ではなくて「コウゾウ死ね」と書かされたのです。他にもその手の悪戯を何度か知らず知らずのうちにやらされました。
 教師が少し動いてくれたのは、文化祭の時に毎年行われる合唱コンクールの練習の時でした。私がパートリーダーに指名されたのですが、誰も真面目に練習をしてくれません。テープにあわせて声をだしてと言っても何もしない。私は担任にそのことを報告しました。担任と副担任が教室にやってきて、練習を真面目にやるようにと生徒達に言いました。すると、「やだ、言いつけたのよ」という声があちらこちらから聞こえました。
 中学3年生の終わりも近づいた頃、公立高校の合格発表を終えた頃ですから2月も末のことだと思います。今まで一貫して露骨に嫌な態度をとってきたC代が急に態度を変えて一緒に昼の弁当を食べようと誘ってきました。学校の帰り道でE杖にそのことを話すと、C代が最初は私のことを「英語以外の教科は全然ダメだ」と言っていたこと、そして私が学区で3番目の公立高校に入ることが決まったのでC代は急接近してきたのだと言いました。卒業式までの1週間ぐらいでしょうか、C代を交えた「優等生・良い子グループ」の女の子たちと一緒に弁当を食べました。考えてみれば、その時の面子はC代を除いて全員、学区で1番から4番までの大学進学率の高い公立高校の入学が決まっていた人達でした。C代から「ごめんなさい」の一言も言われないまま、C代の「友達コレクション」に加えられるに過ぎないこともわかっていながら、仲間に入れてもらえた嬉しさから誘いに乗ってしまいました。本当はもっと怒ってやってもよかったのかもしれません。
 日本の中学校での2年と3カ月、本当につらいことばかりでした。それでも、学校をやめたり自殺したりすることは考えませんでした。どんなことがあっても頑張って学校に通いました。大学に進みたかったし、成績を落とすことでいじめっ子達を喜ばせたくもありませんでした。また、親を悲しませたくなかったので、自殺は絶対にしたくないと思いました。
 高校に入ってからはいじめにあうことはありませんでしたが、いじめの後遺症は残りました。外国隠しはしませんでしたが、積極的にアピールすることは控えていました。自分が頼りにされている、仲間として見られていると信じるのに時間がかかり、自分が受け入れられ過ぎると不安になりました。いじめのなくなった高校時代で、後遺症がすべて解消したわけではありません。社会人になった今でも、自分が日本人に受け入れられていると感じるのに時間がかかり、受け入れられ過ぎると不安を感じます。外国人とのコミュニケーションでは何ともないのに。
 大学を卒業した年の3月、いじめの一番ひどかった中学3年生のクラスのクラス会がありました。A子から電話で連絡があり、出席しました。誰か一人ぐらいはいじめに対してなんらかの謝罪をしてくれるかもしれないとささやかな期待もありました。しかし、行ってみると誰も中学時代には何事もなかったような顔をしていました。
 そのクラス会で一番ショックだったのは教師の言葉でした。大学に進んだ元教え子達は皆、これから社会に飛び出そうとしている時でした。当然、他の大学卒業者達には、「どういう学校でどんなことを勉強してきたのか、これからどういう職業につくのか、どういう夢を抱いているのか」というようなことを熱心に聞いていました。しかし、私にはそういったことは聞いてきませんでした。いじめられっ子というのは教師にはそういう見方しかされないのかもしれませんが、「大丈夫か、元気か、何か困っていることはないか」と言われたのはショックでした。
 中学校で、私以外のすべての人たちにとって、私に対するいじめというのは当然のことながら大きなことではなかったようです。忘れてしまっているでしょうし、また暴力を伴わないいじめは罪悪感も残りません。集団における異端排除のためのいじめは、社会的制裁の意味を含んでいて、それを行なった当事者達には意識の内で十分に正当化出来てしまうのかもしれません。また、「馬鹿は相手にするな」という言葉がありますが、「シカトする」ということは「不愉快な奴を相手にしない」という意味で正当化出来てしまいます。いじめに加担したという意識も薄いでしょうし、罪悪感は残らないでしょう。ただの障害を持つ生徒であれば、ある程度手加減をしてくれていたかもしれませんし、正義の味方が現われて擁護してくれていたことでしょう。しかし、「帰国子女」という、精神的・文化的異邦人というのは、彼らにとって同情の余地のない攻撃目標だったのだと思います。