私情つうしん 第14号 1998年2月発行

ペキンスカヤの中庭で  (12)

by 中津燎子

連載の前の回

 人間が生きてゆく時の「居場所」とは一体、何をさして言うのだろうか?
 10月末に74才の兄が亡くなり、その死顔をみた時、「兄は、遂に最後に日本での居場所を失ったのではないか?」と考えた。
「居場所」探しでは兄も私も決して、楽な思いをしたことはなかったと思う。
 私たち兄妹は3才と5才で母に連れられて、父の勤務地だったシベリア沿海州のウラヂオストックに渡った。それから6年後、兄は中学進学準備のため、一人で父の郷里に旅立った。私も又、母と共に2年後に帰国したが、父はそれよりもずっとおくれて、やっと一家が顔をそろえたのは次の年だった。
 私の幼ない記憶には日本の姿は全くゼロだったから、日本と言うみしらぬ国に帰って来て毎日が驚きの連続だった。一足先に帰った兄はどんな帰国適応期をすごしたのだろうか?
 兄と私は、そのことについて話をした記憶がない。時代はアッという間に戦争が激化してそれどころではなくなった。兄は在学中に海軍特攻隊にとられ、所在も消息も一切不明となったし、私も又海軍系の飛行機工場に動員され、24時間ひっきりなしの米軍の空爆にさらされる毎日だった。空爆で交通網がズタズタにされるので、一度、工場に出ると2、3カ月帰ることが出来なかった。
 やがて8月15日の終戦でホッとしていると、9月末のある日、天から降ってきたか、地中からわいて出たかのように突然よごれた飛行服姿の兄が玄関につったった。家族の誰もが一瞬、「ユーレイか!?」と真剣に考えた。兄は8月15日にロケットに乗組み、体あたりに出発する予定だったのだがある日、突然、戦争は終ったから一日も早く郷里へ帰れ!と言う司令官命令で否応なく列車にのせられたのだと言う。「一体どこにいたの?」ときくと、秋田県の山の中の「神町」と言う所に特攻基地があり、そこからえんえんと1週間以上かけて貨車と徒歩で東京、名古屋、大阪の丸焼け都市をつっきり、更にもっと惨憺たる状態の広島を3日かけて歩き通して福岡の我家にたどりついた。
 そして戦後の50年がすぎた。私たち2人は結果として、まったく異なった精神世界の「居場所」を持ってしまったような気がする。私は戦争中からずっと、日本人の生き方と、日本という国のあり方に根深い疑問を持ちつづけ、自分の魂の居場所を日本の中に作ることをしなかった。国や文化と関係なく、私の居場所は私自身の中にあり、私がそれで納得出来て生きてゆけたらそれでいい。ほっといてくれ、というのが私の生き方だったが、兄は「そんなフテクサレの理屈をこねるから友だちがいないんだ」とよくたしなめた。
 私とは逆に、兄には山程友人がいて一見、たのしげに暮していたが、60才をすぎる頃、友人の一人にだまされて億に近い負債を抱えて倒産し何もかも失った。そしてそれまで信じきっていた日本文化の神髄のような和の世界について何も言わなくなった。かつて若い頃に特攻兵の彼が守ろうとした祖国は「和」の心を持つやさしい国だったのだろう。彼の心の居場所もそこにあったのだと思うが、死ぬまでの14年間、深酒と沈黙の中に居場所は消滅していったようだ。あれ程、周囲との和を気づかいながら、結局むくわれることのなかった兄を愚かというのはたやすい。しかし、居場所探しに神経をすりへらす帰国子女の切なさを知る私は心から兄を悼んで涙を流す。


プロフィール
1925年福岡市に出生。3才で、日本領事館で通訳として勤務する父に連れられて旧ソ連領のウラヂオストック市に渡る。1936年、日本に帰国。戦後、1956年渡米。結婚し2児を連れて1965年帰国。以降、英語塾を開き、東京・大阪・九州で異文化対応と発音訓練を教えて現在に至る。