私情つうしん 第13号 1997年11月発行

定本:内国子女教育の歴史

第5章 内国子女教育の展開

文・古家 淳
挿絵・本多さつき(多忙につきお休み)

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§1 内国子女の自己主張

 内国子女教育の進展に伴い、自殺する少年が増えているというテレビ報道が頻繁になった。それに対して「傘がない」と叫ぶものは内国子女ばかりであったが、内国子女の常としてそれを声高に唱えるものはなかなか現れなかった。
 しかし、内国子女教育はついに一つの成果をあげた。以下のように内国子女の立場を表現するものが現れたのである。これは内国子女が初めて自らの立場を表明したものとして話題を呼んだ。以下、その少年の文章を部分的に引用する。

 ぼくは内国子女です。でも、この文章を書くこと自体、内国子女の仲間に対しては裏切りかもしれません。(中略)なにしろ、内国子女にとってこうして自分の意見を公表することがすでに日本文化に対する大きな反逆なのですから。
 でもぼくはとうとう書かずにいられなくなりました。最近、このヤポネシアでは、内国子女と呼ばれるぼくらの仲間の悲劇が相次いでいます。大挙して押し寄せてきたユーミン・フーミンによって、この列島は完全にテーマパークと化し、ぼくたちの暮らしは完全に破壊されました。ぼくたちは彼らの学校に行くこととなり、彼らの文化に適応を余儀なくされています。でも、それは本来ぼくたち内国子女が持っていた文化とは真っ向から対立するものです。
 彼らはぼくたちのことを「内国子女」と呼びます。ぼくは逆に彼らに「海外子女」という名を与えようと思います。本当はどちらも必要のないコトバなのかもしれません。でも、ぼくらと彼らとがこんなにも違う以上、今の学校にはやはりどうしても、この二つの区別が必要だと思います。
 彼ら海外子女は、まったく礼儀知らずです。自分が何をしたいかをはっきりと口にするなんて、他人への配慮を完全に欠いているとしか思えません。目の前にいる相手が心の底で何を考えているのかを、まったくわかろうとしてくれません。だから平気で人の心の中に踏み込んできます。
 また彼らはまったく高慢ちきです。自分が何ができるかを、これみよがしに自慢します。そのかげで、ぼくら内国子女が劣等感に打ちひしがれているなんてことに、まったく気がつかないのです。彼らはなにしろ、どんなことでも「ぼくが、私が」です。ほかの人間はすべて踏み台にでもしようというのでしょうか。
 内国子女から見れば、海外子女はばかです。なにごともコトバに出して言わなければわかってくれないなんて、感受性がゼロなんだとしか思えません。人間としての深さがありません。じっと我慢して時がめぐってくるのを待つこともできず、まるで猿のように目の前の結果だけを追い求めます。静かに一人だけで思いをめぐらせることもせず、盛りのついた猫のようにいつも騒いでいます。内面の成熟を願うこともせずに、人前で派手に目立つことばかりをやっています。彼らにとっては行動がすべて。表現されたもの以外には何も存在しないのです。(中略)彼らは、まったく動物以下の連中です。
 今、この国の学校では、ぼくたち内国子女も彼ら海外子女と同じであることを求められています。それを彼らは「内国子女がかわいそうだから」というコトバで飾り立てます。でも、彼らはわかっちゃいないのです。ぼくたちにはぼくたちが守ってきた生き方があることを。ぼくたちこそが、彼らの源流であることを。(以下、略)

 この文章は、「海外子女」という言葉が初めて活字になった記念碑的なものとしても歴史に残っている。そしてまた、内国子女本人からの反撃として、たいへんスキャンダラスな反響を巻き起こした。良心的な教育者たちのうちのある一派は素直に自分たちの内国子女教育の成果としてこれだけの表現が生まれてきたと喜び、また別の一派はこの文章の内容にこれまた素直に従って、自分たちのやりかたが間違っていたのではないかと疑い始めた。ただいずれにしろ、この文章がきっかけとなって「内国子女=金の卵」論が生まれた。
 すなわち、内国子女こそがヤポネシアの精神を今に伝えている。これはヤポネシアの伝統芸能や伝統文化をテーマにするテーマパークにとっては欠かせない財産であるという主張である。さらにまた、この文章を書いた少年のように内国子女でありながら自己主張の能力を身につけた子どもたちこそ、未来のヤポネシアを担うべき新しきフーミンであるという主張である。


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