私情つうしん 第13号 1997年11月発行

清濁併せ呑むなんてできない
      (その2)

by 小泉由美

English version by herself

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 しばらく世間を騒がせた第一勧業銀行の総会屋事件は、とりあえず一段落したようだ。しかし、結局、なぜあそこまで巨額の利益供与が行われたのかは(最初から予想したとおり)明らかにされないままだった。
 銀行の知り合いに尋ねても、
「中はもうすっかり平常どおり。みんな前向きだし」「自分の部署は事件とは関係ないから、よくわからない」「(事件があっても)自分の人生観なんて変わらないし、銀行に対しても変わらない」 「もうお客さんも許していると思う」
というコメントばかり。むしろ、私のほうが心配になってしまう。これから組織の中心になるべき中堅の人たちが、自分の部署には関係ないからわからない、と言ったり、今でも個人預金が減り続けているのに、お客さんが許していると思うなんて、大丈夫なんだろうか。
 上司の言うことには絶対服従する、あるいは上司がいる限り自分の仕事が終わっていても帰れない、というような組織である限り、第一勧銀に限らず、また同じような事件が起こるだろう。

image  そもそも、様々な局面において、日本では自分の頭でじっくり「考える」ことがされていないように思う。誰かが言ったことに文句を言いつつも結局は従ってしまう。だって、なんかいろいろ考えるのめんどーだしー、よくわかんないしー、まっ、いーんじゃない?

 日本の教育の中で、学校でも家庭でも、「考える」訓練、そして考えを「論理的に表現する」訓練はほとんど行われていない。暗記による知識の吸収も大切ではあるが、覚えただけでは意味がなく、その知識をどう活用するかが問題だと思う。アメリカの高校で、歴史の授業で「あなたがトーマス・ジェファソンだったら、このときどうしたか」というようなレポートを沢山書いたり、生物の授業で毎週講義とは別に実験の時間があって「体験する」ことが重視されていたことを、なつかしく思い出す。

 銀行の「清濁併せ飲む」体質が私には我慢できなかったけれど、もしかすると、何が「清」で何が「濁」なのか、よくわからない人が多かったのかもしれない。
 しかし、「考える」訓練だけでは充分ではない。それと同時に、「他人を気にしない」訓練(?)も必要だろう。他人を気にしないとは、「こんなことをしたら他人はこう思うだろう」という憶測をしないことである。
 銀行にいたときの会話。
「どうして上司がいると帰れないんですか?」
「いや、帰れないんだよ」
「何か言われるんですか?」
「いや、言われたことはないけどさ、あいつやる気がないって思われるんだよ」
「言われたことなくて、どうしてわかるんですか?」
「そういうもんなんだよ」
まあ、その状況なり気持ちなり、日本人のメンタリティーとしてわかるんですけどね。でも、これってすごーく息苦しくないだろうか。

 自分はこうしたい、という確固たる自己がないから、他人がどう思うか気になるのだ。自己の確立も、日本では学校でも家庭でもほとんど奨励されていない。確固たる自己なんて、どうすればできるのかわからない、というのが一般の本音だろう。
 でも、これは本当はそんなに難しいことではない。自分については、自分が好きでよくできることに力を注ぐ。他人については、その人の長所を褒め、注意したいときはこうしたらもっとよくなるという言い方をする。マイナスのことは言わないし、しない。それだけで随分変わると思う。
 日本で小学生だったとき、私は学校でも家でもほとんど褒められたことがない。たとえばテストで95点を取ったとする。自分ではそれなりにいい点だと思う。ところが、学校でも家でも「どうしてこんなところで間違えるんだ」と言われ、しゅんとする。これがアメリカの中学高校では、「わあ、すごいじゃない!大したもんだ!」と言われる。そうすると、そうか、じゃあ次も頑張ろうと自然に思えてしまう。(ちょっと単純かな。)
 長所を見ていけば、Aさんは数学が得意、Bさんは絵を描くのが上手、Cさんはおしゃれのセンスが抜群、そして自分は建築が好き……というように、各人の良さ、すなわち個性が見えてくる。自分の良さを軸とする自己が確立すれば、人がちょっとやそっと何か言っても左右されなくなる。自分はどうしたいのか、どう思うかがわかってくる。

 社会の仕組みや人の心を変えようなんて大それたことは思わないが、少なくとも自分が関わりのある場所や人に対しては、これからも「清濁併せ飲む」ことはしたくないと思う。