私情つうしん 第11号 1997年6月発行

虫の居どころ

虫

H騒動

by 大山智子


 ことの顛末は、パスポートの申請に始まる。学生証もない今となっては、手持ちの写真つき身分証明書として、パスポートを1冊持っておくとレンタルビデオ屋から海外旅行まで何かと便利だ。逆にいえば、ないと困る。ホントに。で、期限切れを機にパスポートを申請、先月、10年用の小型になった赤い手帳をもらってきた。それからなのだ、面倒がいろいろ起こってきたのは。
 まずは、アメリカの銀行でひっかかった。次に、アメリカの機関に提出する申請書類でまたもめた。で、最近申請した外資系銀行のクレジットカードでも、問い合わせがやってきた。理由は「名前が一致しません」。かねてから私は名前に関して「OHYAMA」でやってきていた。初めてアメリカに行く時にとったパスポートから、その後、アメリカで暮らしている間も、ずっと。高校の卒業証書も、銀行の小切手も、全部「OHYAMA」なのだ。ところが、今回、身分証明に使った新しいパスポートには、なるほど、「OYAMA」となっている。「OHYAMA」の記載はどこにもない。気がつかなかった。そうそう、そういえば、申請する時に「ヘボン式ローマ字について、次のものは特に誤りやすいので注意してください 長音:記入しない 例)おおたOTA」と書いてあった。それで「OYAMA」って記入したんだよな、あまり考えもしないで。それが仇となった。よく考えればよかった。だって、今になって不便なんだもん、実際。
 ビルマがミャンマーになった時はよかった。世界各国で新聞が取り上げて、世の中の隅々まで、国名が変わったことが伝わった。「OHYAMA」が今度のパスポートでは「OYAMA」になっていることは、自分でいちいち説明しなくちゃならない。なまじ、1文字だけ違うというところがややこしい。名前が変わったわけでもないんだけど、ヘボン式の書き方では長音は書かないらしい、とかなんとか。それにしても、どうしてだ。なんでだ。なんで「OYAMA」でなければならないのだ。記入上「誤りやすいから注意しろ」というけれど、「誤り」ってどういうことだ。するってぇとなにかい、あたしの「OHYAMA」ってぇ名前は誤りだっていうことかい。
 悪いけど、へそとつむじの曲がり具合には、なかなか自信がある。はい、そうですかっていうほど素直に人間できてないのよね、残念ながら。戸籍上の名前をヘボン式ローマ字で記入するということは、例えば「スミス恵子」なんて名乗っている人は「SUMISU」って記入するということか? まさか、そんな理不尽な。で、調べてみたらやっぱりあったのだ、「非ヘボン式氏名表記等申出書」というものが。これを出せばスミスは「SMITH」としてパスポートに記載される。それなら、オオヤマだって非ヘボン式で「OHYAMA」で届けよう。何も、全く違う名前を記載してくれというわけではない。別にここで、名前にアイデンティティを背負わせたいわけでもない。ただ、生活上の不便を何も「H」1文字のために課される筋合いはないと思っているだけだ。
 旅券課に問い合わせると、「OYAMA」のとなりにカッコつきで「(OHYAMA)」と並記することは可能だという。ただし、「OHYAMA」だけという表記はできない。また、「OHYAMA」のとなりに「(OYAMA)」とすることも不可だという。その理由を尋ねると、相談窓口の冷静沈着なおねえさんは電話のむこうで困った様子を漂わせながら、「ヘボン式表記が正式だからです。原則なんです」と答えた。本当のところ、戸籍で「大山智子」として記載されているこの人はパスポートでは「TOMOKO OHYAMA」として記載を登録します、っていうところさえ一貫して一致していればいいんじゃないの、と個人的には思っている。日本語をどのようにアルファベットで表記するのが正式かという議論はそれはそれとして、パスポートはそもそも実用的なものなのだから、使う人が「OHYAMA」で使いたいといえば、それでよいのではないかね、とも思うのだ。そんなことをいっていると、「俺は、楔文字とか、キリル文字で登録するぜ」という輩が出てきて収拾つかなくなる気もするけれど。ただ、管理する人のための実用性が使う人の実用性に優先されるのは、へそ曲がりの私のセンスからすればおかしな話だ。だいたい、不便をこうむるのは使う私であって、管理する人じゃないのだから。
 結局、取得したばかりのパスポートをまた手数料をかけて再申請するのも面倒なので、訂正として「(OHYAMA)」を追記してもらうことにした。それにしても、「ギョエテとは俺のことかとゲーテいい」……。名前をめぐる話はつきないけれど、今回のヘボン式のヘボン氏だって、絶対いうにちがいない。ヘボンとは俺のことかとヘップバーンいい――。


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