私情つうしん 第10号 1997年4月発行

現地校体験記

勉強ができなきゃビートルズを聴け?!

by 橘 豊The Singapore American School
83年 シンガポール日本人学校転入(当時8歳)
86年 香港日本人学校転入
88年 香港セントジョージスクール転入(イギリス系の学校)
90年 香港インターナショナルスクール転入
91年 シンガポールアメリカンスクール転入(高校1〜3年)
94年 早稲田大学第一文学部入学
40 Woodlands Street 41
Singapore 738547
Central Administration (65) 363-3403
High School 363-3404

 高校時代、体育の授業で笑われたことがある。笑われた原因は私が穿いていた短パンだった。別にお尻の所に穴が開いていたわけでもないし、その短パンがピチピチだったわけでもなかった。理由を聞くと「似合わない」と言うのだ。つまり、私がシンガポールという赤道直下の国の太陽を燦燦と浴びて、さわやかにスポーツをするということ自体が想像できないことであって、まして私の短パン姿なんてものを見た日には笑いが止まらないということだったらしい。スポーツは得意の方だったが、「音楽室で暮らしているの?」と友人に冗談を言われる程、当時の私は音楽室に入り浸り、スポーツとは無縁の男になっていた。
 高校最後の年の私の時間割はほとんどが音楽に関係するものばかりだった。いつの間にか私の中で母校であるシンガポール・アメリカンスクールは音楽学校のようになってしまっていた。音楽というと華麗でどこか真面目な雰囲気があるが、あくまでもそれはクラシックの世界の話である。私のように毎日ギターを肩から下げて登校し、ロックに熱中していた、いわゆるバンドマンの辞書には「真面目」という言葉がなかった。ルールを無視して始めてロックが出来るという訳の分からないことを信じていた。もちろん勉強が出来るはずがない。ライブがある時などは練習、練習で宿題や試験勉強は就寝中、夢の中でするしかないといった具合だった。
 毎週テストがあるというのがアメリカン・スクールの特徴であり、テスト以外にもレポートを提出しなければならないこともあった。本を1冊、2冊読んでその本に関するレポートを1、2週間で書き上げることもざらだった。毎日の積み重ねを重んじるアメリカン・スクールのシステムは私にとって苦痛だった。同じクラスの優等生はAを取るために努力していたが、私は単位を取るために必死だった。特に高校最後の年の英語の期末試験には単位だけでなく、卒業がかかっていた。分厚い課題本を読んでおけば私だって単位ぐらい取れるはずだったのだが、運の悪いことに高校最後のライブと試験が重なってしまった。どちらも諦めるわけにはいかないので、ライブ:勉強=7:3という比率で挑んだのだが、課題本の後半は読み終えることができなかった。ただ、その英語の授業を取っている生徒の半数近くが偶然にもバンドマンだったことが、私だけではない、という変な安心感を与えてくれた。担任のMrs. Donahueは厳しい先生ではあったが、私たちの音楽の良き理解者であり、ライブに必ず来てくれる珍しい先生でもあった。勉強ができなくても何か一つでも誰にも負けないものを持っている生徒を尊重してくれた先生だった。課題本を読み終えることができなかった私にとってあとは先生がいかに簡単な問題を作ってくれるか期待するだけだった。
guitar  試験が終わった後、私に向かって「試験の問題、気に入ってくれたかしら?」とやさしそうに笑ったMrs. Donahueは世界一coolな先生だと今でも思う。「ビートルズの歌詞について自由に論ぜよ」というバンドをしている者なら誰もが書けそうな問題をつくってくれた先生に対して、義理と人情で生きる日本人の私は最後のライブで先生の大好きな曲、"Jonny B. Good"を弾いてあげたのだった。「自分」を持つことの大切さを教えてくれた先生は、授業の中でも私の個性を引き出そう引き出そうとしてくれた先生だった。今思うとアメリカン・スクール自体がMrs. Donahueのような学校だったのかもしれない。


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