logo 私情つうしん 第1号 1995年6月発行

世界観を変えた酔っ払い

by 大山智子

 大酒飲みの偉人M氏と出会ったのは、某編集プロダクションの事務所でだった。高校を卒業したての私は、紆余曲折を経てその事務所に勤めることになったのだ。
 新人たるもの、誰よりも早く出社して事務所の掃除をしなければ、という初々しくも殊勝な考えをあざ笑うかのようにM氏は毎朝事務所のソファの上でいも袋のような毛布をかぶって寝ていた。私が仕方なくソファをよけて掃除し、机を整頓し、鉛筆を一本残らずきれいに削り終えてもなお、M氏は深くソファに埋まっている。M氏とはそういう人だった。
 M氏とは話をすることもあったが、「どこに住んでいる」というような家についての話を聞くことはなかった。毎朝のその姿から容易に察せられる通り、深夜にまで及ぶ飲みの後、起きてくるのはたいてい昼飯時。
 ひと通り新人としての緊張もとけてきたある朝、事務所に行ってみるとM氏の姿がなかった。あのいも袋のような毛布は、前の日にクローゼットにしまったまま、手をつけた形跡もない。「昨日はめずらしく飲みに行かなかったんだ、M氏」。その日、初めて事務所を余すところなく掃除し終えた私は、満足感に満たされてコーヒーまで入れて社員の出社を待った。しかし定時になってもM氏はやって来ない。昼飯時になっても姿を見せない。「もしや、M氏の身に何かあったのでは…」と不覚にも心配の芽が育ち始めた頃、電話が鳴った。M氏からだった。
「あっ、トモちゃん? あのさ、オレだけど」
「どうしたんですか、今日は」
「うん、オレ、今、どこにいるかわからないんだ」。
 つまり、昨晩のM氏の記憶を辿っていくと、ある飲み屋で気持ち良くお銚子をかたむけていたところまでは覚えているのだが、その後がぷっつり途絶えているのだという。そして目覚めてみると「仏壇のある部屋に寝かされていた」らしい。
「ぜんぜん知らない家なんだよ」
「Mさん、玄関に行ってみてください。それで靴を見ればどんな人の家か わかると思いますよッ」。
 何だかわけのわからない状況にいささかたじろぎ、少年探偵のような興奮を覚えつつ、それ以上にわからないM氏という人物に思いを巡らせた。結局、M氏はその日は出社せず、夕刻のちょうちんにひかれて深酒をし、翌朝にはソファの上でいも袋にくるまる日常を取り戻したのだが、この事件を通して私がM氏について知ったことはM氏が家について語らないのではなく、M氏には語るべき家がないということだった。M氏は帰宅するべき特定の家を持っていなかったのだ。
 4年後。その編集プロダクションを離れて就職試験を受けた。「衣食足りて( )を知る」という穴埋め問題に、迷いなく「住」と入れた私はもちろん試験に落ちた。が、しかし。それは私がことわざ、故事成語に弱いキコクだったからではなく、「住」を持たずして暮らすあのM氏との強烈な出会いのせいである、と確信している。ああ、東京ではヒトは住まいなくとも生きていけるのだ。


筆者に手紙を出す
お手紙は編集部にも届きます。